トイレットペーパーは近所のドラッグストアでもっとも安いシングルロールのものを買うけれど、タクシー代だけは惜しまないタイプの佐藤貴之54歳は、今日も下北沢からタクシーに乗り込む。
「ご利用ありがとうございます」
「笹塚までお願いします」
「はい、高崎ですね!」
「いえ……笹塚です」
「たかさきですね!」
ドライバーを見ると白っぽい金髪にカラフルなボーダーのポロシャツの青年。乗務員証には「ちょむ」という名が記されている。
佐藤貴之54歳は、鉄板焼きハンバーグを注文して紙エプロンがもらえないとき以外は他人に抗議しないと決めて生きてきたので、即座に諦めて彼に従うことにする。
「僕、下北沢駅を出た瞬間の景色が好きで、いつもこの場所でお客さんを待ってるんです。なんかわくわくするんですよね。賑やかだし」
「わかるような気がします」
「お客さんはどうして高崎まで行きたいんですか?」
「どうして……でしょうね」
床屋のシャンプー台で「かゆいところはありませんか?」と聞かれたとき以外は極力自分の意見を主張しないことにしている佐藤貴之54歳は、もちろん反論しない。
タクシーは、多分、高崎へ向かっている。
「お客さん、これ読めますか?」
環七通りの途中、信号待ちで車が止まった瞬間に、ドライバーから差し出されたメモ帳には「馴鹿」という文字が書かれている。
「読め……ませんね」
「下北沢から高崎まで、ちょっとだけ時間がかかると思うんですよ。よかったら暇つぶしにぜひ」
「はあ。…………『あしか』ですかね」
「なるほど。残念ながら不正解です。知っている読み方にとらわれない方がいいと思います。『鹿』はヒントになるかと」
その後も「かもしか」「いるか」「へらじか」「かっぱ」「がぜる」など、思いつくままに読み方をあげてみたものの、テレビのクイズ番組を見ていてもことごとく間違った答えを選んでしまう佐藤貴之54歳はもちろん不正解。
「じゃあ最後のヒントを出しますね。冬のイベントに関係がある動物です」
「…………『となかい』ですか?」
「正解です!」
満面の笑みを浮かべるドライバーにつられて、佐藤貴之54歳もスマートフォンのフリック入力をマスターした日以来の笑顔になる。
そうこうするうちに、いつの間にかウトウトし始めた佐藤貴之54歳は短い夢を見ている。
地方都市らしき街の中を流れる川にかかるアーチ型の橋の上に、家族のように見える4人組が佇んでいる。母親と父親と小さな男の子2人。そこにふらりと現れた蜜蜂が弟と見られる少年にまとわりつき、蜂は少年の右手の中指と薬指の間を刺す。少年は痛さのあまり号泣し、突如泣き出した子どもを見て、母親と父親は彼のことを心配して、彼が泣く理由を聞くのだが、少年は頑なに蜂に刺されたことを話さない。少年自身もなぜ自分がそのことを隠しているのか、自分でも理由がわからない、ということが夢の中の佐藤貴之54歳にはなぜかわかる。
「お客さんそろそろ着きますよ」
佐藤貴之54歳が目を覚ますと、ドライバーの顔は、夢の中で泣いていた少年の顔にどこか似ている気がした。
窓の外を見るとそこは、宇宙空間のようだった。
タクシーはいつの間にか、走らずに飛んでいた。
「高崎って随分遠いところにあるんですね……」
「そうなんです、ちょっと遠かったですよね。そろそろ降りますね」
ジェットコースターに乗ったことがない佐藤貴之54歳が生まれてはじめて激しいGを感じながら徐々にタクシーが降下すると、雲の狭間から見えてくるのは、木々に囲まれた一帯に立ち並ぶオール電化住宅の群れだった。
「ここが高崎……」
「さあ、降りてみてください」
佐藤貴之54歳がタクシーを降りると、佐藤貴之54歳が踏みしめた砂利の音に反応して、オール電化住宅の群れが「でんでん!」と嬉しそうに鳴き声を上げる。
オール電化住宅の間には数十メートルほどはありそうな巨大なスクリーンが設置され、サングラスをかけた青年が真っ赤な車を運転しながらパトカーに追いかけられる、佐藤貴之54歳が見たことのない映画が無音で流れている。そして無数の大音量の「でんでん!」の鳴き声。
「ご利用、ありがとうございました。料金は4万5千円です」
クレジットカードを持たない主義の佐藤貴之54歳が、新幹線の車内通販で購入した財布からぴったり4万5千円を手渡すと、ドライバーは爽やかに微笑んだ。
※この物語は(ほぼ)フィクションです。実在の人物、企業、場所とは、関係ある部分とない部分があります。
(企画:チーム未完成、文章:ゆりしー、撮影:ぴっかぱいせん)