武州御嶽840年目の真実 §10 検証 武州御嶽縁起の謎(その2)
2026/1/25(日)
§10 検証 武州御嶽縁起の謎(その2)
【 大中臣国兼の出自 】
武蔵御嶽神社に伝わる3つの縁起のうち、最も新しく通史的にまとまっているのが、江戸時代後期の文化年間(1804~1818)に成立した『御嶽山社頭来由記』、通称『元和八年縁起』(以下『来由記』)です。その内容を約半分のボリュームにまとめたものが、『新編武蔵風土記稿』の「御嶽社」の項目に載っています(前回投稿の稿末参照)。
その構成と内容は非常に独特で、一般的に寺院の縁起や神社の由緒の冒頭部分は、開山僧侶と地主神の邂逅や主祭神の鎮座のいきさつなど、その寺社が作られるきっかけとなったエピソードが語られるところですが、武州御嶽の場合、眷属の大口真神(おいぬ様)誕生伝説が縁起全体の5分の2を占めるほど延々と綴られ、主尊の蔵王権現については、中盤、行基上人【画像1】が来山し、日本武尊(ヤマトタケル)が東国を平定した基(もとい)となった土地といって、同像を鋳造して安置したという形で登場します。
出現の時代順も、眷属の大口真神が先(古墳時代)で、主尊の蔵王権現が後(奈良時代)ということになります。これは、『来由記』を作成した江戸時代後期における世間の武州御嶽に対する認識が、“蔵王権現の霊山”というよりも“おいぬ様のお山”であったことの反映と思われます(現在でも圧倒的においぬ様=大口真神の方が主祭神の櫛真智命よりも有名ですね)。
しかし、なぜヤマトタケルゆかりの地に蔵王権現なのか、さらにその像の作者がなぜ修験者ではない行基だったのでしょうか。ヤマトタケルが修験道の守護神である蔵王権現と同一視されるようになったのは戦国時代以降であり、また行基は生前畿内から出ていないというのが実情のようですので、『来由記』の冒頭から行基の来山までは当然史実ではありません。とはいえ、まったくの虚構かといえばそうとも言えません。実は、ヤマトタケル、蔵王権現(修験道)、行基の3者は、あるひとつの共通項でこの武州御嶽と密接に関わり合っています。これについては、別の機会に稿をあらためて検討したいと思います。なお、武州御嶽とヤマトタケルの関係については過去の投稿をご参照ください。
【画像1】 行基菩薩坐像(喜光寺、大阪府立狭山池博物館)
奈良山とその周辺を拠点に活動した行基集団の中には葬送儀礼をつかさどる土師氏がいて、ヤマトタケル伝承にもかかわっていたといいます。
その後、兵火で荒廃した武州御嶽を再興したのが、武州御嶽中興の祖と仰がれる大中臣国兼(おおなかとみのくにかね)です。
前回、大中臣国兼の来山以降の記述については信憑性が高い、つまり史実を色濃く反映したものと述べました。その理由は、国兼が終生反鎌倉幕府の行動をとっていたこと、それは彼を武州御嶽の司職に任命した、当時の朝廷最大実力者の九条道家(くじょうみちいえ)が幕府転覆を目論んでおり、国兼の行状は道家の意を受けたものであったと考えられ(武州御嶽での加持祈祷も当然含みます)、もしこれが虚構だとしたら、『来由記』を作成した理由(民間支援獲得のための宣伝)と時代背景(鎌倉幕府を理想とする徳川家康が「神君」と崇められた時代)および関東という地域性から、メリットよりデメリットの方が圧倒的に大きく、さらに当時の世相(内憂外患とぎくしゃくし始めた朝幕関係)から幕府に目を付けられるリスクが高いからとしました。つまり、そのようなデメリットやリスクを負ってでも縁起に記載したということは、その内容は真実であり、そうまでした以上他に虚構を差し挟むことはない、という推理です。
ただし、何世代もの口伝や書写による錯誤は当然あるはずで、大中臣国兼の出自については検討の余地があります。『来由記』では、彼を「始め伊勢の大宮司にして姓は大中臣、氏は大枝といへり」、そして承久の乱後「己が旧跡なりし遠江国の住人浜名民部丞といふものの家に隠れ浜名を以て氏とせり」としています。
しかしながら、『来由記』における国兼の武州御嶽中興エピソードのベースとなった彼の述作の『建長八年縁起(以下『建長縁起』)』(*1)には自身の出自の記載はなく、わずかに「久仕神明(久しく神明に仕えた)」とあるだけです。実際、伊勢神宮の大宮司の系譜に国兼の名前は見えず、それでも「始め伊勢の大宮司にして」としたのは、後の時代に武州御嶽の宮司となった浜名氏に系譜をつなげるためであったと考えられます。それは、国兼の「旧跡」とする遠江国の浜名という土地が、「浜名神戸」(*2)という古くからの伊勢神宮の御厨(みくりや、領地のこと)であったからです。しかし、平安時代初期(9世紀初頭)以来「神仏隔離」が固く貫かれていた伊勢神宮において、国兼がこれを監督指導する立場の大宮司(最高責任者)(*3)であったならば、“神像”とはいえ仏教世界の尊格である蔵王権現像(釈迦・観音・弥勒の化身)を鋳造し、縁起の表題にも「南瞻部州(なんせんぶしゅう)」という仏教用語を使用しているのはあまりにも不自然です。上記「久仕神明」の「神明」は、おもに天照大神を指しますが単純に「神祇(=神様)」の意味もあり、この場合は後者ではないかと思われます(*4)。
したがって、彼の出自は、九条道家が大事を託すほどの股肱の臣(側近中の側近)であった可能性から、道家含め藤氏長者がたびたび参詣し、代々大中臣氏が宮司をつとめた、藤原氏の氏神である春日大社(神仏習合時代は春日大明神)の神職だったのではないかと推理します。
(*1) 正式名称は『南瞻部州大日本国東海道武蔵国奥院御嶽縁起』
(*2) 浜名神戸は、「国造貢進(こくぞうこうしん)」、つまり大化の改新以前に地元の有力者から寄進された、伊勢神宮最古級の領地といわれています。
(*3) 伊勢神宮には、一般的な神社のトップである宮司の上にさらに、祭主と大宮司が置かれました。祭主は普段は都に居住して、重要祭事の際に伊勢に下向しました。大宮司は都(神祇官)から派遣される中央官人で、伊勢に常駐して内宮と外宮を統括しました。「神仏隔離」はその祭祀マニュアルである『皇太神宮儀式帳』(延暦二十三年=804成立)に規定されています。
(*4) あるいは書写で「明神」と「神明」を混同した可能性もあります。春日大社では、すでに12世紀の前半には(大)明神号を称する神仏習合が浸透していました。
【 『正和縁起』に隠された中世の武州御嶽の大変革 】
『建長縁起』には、国兼が武州御嶽に来山した経緯、中興の営み、宝治合戦で無実の悪名を蒙ったことなどが記されています。この中で興味深いのは、中興の営みの中で、蔵王権現像の再興に加えて、旧例に復して五尺の不動明王を安置したことです。蔵王権現と不動明王の併存が、当初から武州御嶽の奉仕体制であったことがうかがえります。
これらの内容は、集約された形で『来由記』に盛り込まれているわけですが、その一方で、内容がまったく反映されていないのが、もう一つの『壬生氏置文(みぶしのおきぶみ)』、別名『正和三年縁起(以下『正和縁起)』です。
本文は漢文でおよそ700字ほど。全文は、『武州御嶽山史の研究』(斎藤典男 1975 隣人社)に掲載されています(国立国会図書館デジタルオンライン)。
それは、優婆夷(うばい、女性の在家信者)の壬生氏尼(みぶしのあま)という人物による堂舎や仏像の寄進状といえるものですが、ざっくり内容をご紹介しますと、
- 武州奥氷川に金峯山(武州御嶽)があり、蔵王権現が多くの人々に利益を授けています。
- 私は、優婆夷として長年、武州御嶽の蔵王権現を信仰し、おかげさまで80歳まで生きることができました。
- そのお礼として、このたび二階建ての楼門、釈迦如来像、地蔵菩薩像、金剛力士像を造立し、
- また、法華経66部を528巻書写し、当山および諸国に奉納し、
- 正和の年代に鎌倉極楽寺の長老を招いて落慶法要いたします。
『来由記』には、「国兼昇天のこと」は“壬生氏置文に詳しく書かれている”としながらも、なぜか実際にはまったく記されていません。しかし、この壬生氏尼が正和三年(1314)時に80歳(*5)としますと、国兼が『建長縁起』を書いた建長八年(1256)では23歳ということで、国兼の死には立ち会える年齢でした。
この『正和縁起』が、『来由記』に反映されていないのは、上記の通り仏教色100%の内容であるために、江戸時代後期にすでに神社神道化が進んでいた武州御嶽にとって、神道化の始まりを大中臣国兼とする上で整合性が保てないからと思われます。
(*5) ただし、平安時代以降、奈良金峯山で修行すると余算81年、さらに蔵王権現の守護を得れば81か月寿命を延ばすことができるという思想があり、壬生氏尼が必ずしも80歳であったとは限らず、長寿を得られたという程度の意味でとらえたほうがいいかもしれません。
ところが、この『正和縁起』には、武州御嶽が仏教から神道へ転換したのと同じくらい大きな変革があったことが示されています。ポイントは、楼門や仏像の落慶法要に鎌倉の極楽寺から長老(住職)を招いたということです。
鎌倉の極楽寺は、正元元年(1259)北条重時(ほうじょうしげとき)によって創建されました。北条重時とは、鎌倉幕府の三代執権北条泰時の弟で、若い頃は京都の六波羅探題(鎌倉幕府の出先機関で朝廷および西国政策の責任者)を長く勤めました。実は、前述の仁治三年(1242)以降の幕府転覆未遂事件(*6)で、黒幕と目された九条道家と朝廷幹部であった息子たちの更迭を上皇に迫ったのが重時です。その後鎌倉に戻って「連署(れんしょ)」という要職に就き、若い五代執権の北条時頼をよく補佐しました。壬生氏尼は、そんな鎌倉幕府の最高幹部が建てた寺の住職を招いて落慶法要を営んだわけです。 つまりこれは武州御嶽が、
大中臣国兼から壬生氏尼の間(1256~1314)に、京都朝廷の影響下から鎌倉幕府の支配下に置かれた
ことを意味します。それまで北条氏の歴代執権が国司に任じられている武蔵国にありながら、何かと反抗的な動きをする武州御嶽は、幕府にとってはさぞかし眼の上のたんこぶであったことでしょう。その結果としてこの間に、武州御嶽には、巨福山(地蔵菩薩)が設営され(*7)、また蒙古襲来の際には御神体が鎌倉に運ばれ怨敵退散の祈祷が行われました。
鎌倉時代に、かたや京都朝廷の超大物が、かたや鎌倉幕府の最高幹部が、入れ替わり関わったこの武州御嶽の実態とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
(*6) 「仁治三年の政変」、「宮騒動」、および「宝治合戦」
(*7) §6 御岳山における地蔵信仰の痕跡 参照
【画像2】 鎌倉極楽寺(正式名:霊鷲山感応院極楽律寺)。画像は往昔の極楽寺境内絵図(極楽寺蔵)
本尊は釈迦如来。開基は北条重時、開山は忍性。中世の最盛期には子院49箇院を有する大寺院であったそうです。
§10 検証 武州御嶽縁起の謎(つづく)