武州御嶽840年目の真実 §6 御岳山における地蔵信仰の痕跡
2025/9/26(金)
§6 御岳山における地蔵信仰の痕跡
【 前回のふり返り 】
前回は、「御岳山の流鏑馬祭の謎」というテーマで、重宝のひとつ金覆輪円文螺鈿鏡鞍(きんぷくりん・えんもんらでん・かがみくら)について、
- かつて流鏑馬祭に出御する神馬(御祭神の乗り馬)に装着されたものである
- 鏡鞍の座面に施された螺鈿細工の円文が、「冥銭(めいせん)」と魔除けの「蛇の目」を表す
- 「冥銭」は地蔵信仰によるもので、御岳山の本来の御祭神は修羅道に苦しむ怨霊で、これを地蔵菩薩の功徳で救済し、神馬に乗せて金峯山浄土に送り出す目的で奉納されたものである
- 奉納者は、名目上武蔵国主の鎌倉将軍、実際は武蔵守の執権北条氏である
と推理しました。
では、御岳山に地蔵信仰の痕跡はあるのでしょうか?具体的には、地蔵菩薩を安置するお堂(地蔵堂)があったのか?あるいは地蔵菩薩を本尊とする密教修法(奉納の際にこれをしないと御祭神に伝わらない)が行われた可能性はあるのか?これが説明できなければ、この推理はただの憶測になってしまいます。
【 新編武蔵風土記稿の記事から 】
御岳山の由緒縁起に関する公けの刊行物で最も古いのは、江戸幕府直轄の昌平坂学問所地理局が、文化文政期(1804~1829)に編さんした『新編武蔵風土記稿』(以下「新編稿」)です。これは武蔵国内の各村から地誌を提出させた後、局員(幕府旗本・地理学者ら)が現地に赴き調査した上で執筆・編集したものです。
ここから御岳山(項目名「御嶽社」)の地蔵信仰に関するものをピックアップしますと、末社の中に「愛宕社」が、山上寺院に「地蔵堂」の記載がありました。
- 「愛宕社 本社ノ西一町許ニアリ小祠」
- 「地蔵堂 本社ノ東北十町余ニアリ二間四方八大地蔵ト号ス木ノ立像ニテ長一尺五寸ハカリ」
まず、愛宕社ですが、本尊は愛宕権現(分かりきっている場合は省略されます)。愛宕権現とはイザナミを垂迹神、地蔵菩薩を本地仏とする神仏習合の神様です。地蔵菩薩の中でも「勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)」という軍神で、その名前から武士に信仰されました(*1)。場所は、御岳山山頂部から北北西に伸びる尾根上100メートルほど先、現在、狗供御所がある場所(禁足地)にあたると思われます。
次に地蔵堂です。表参道が富士峰から御岳山にさしかかる場所(*2)に現在もあります。本尊の八大地蔵は、八大龍王地蔵菩薩の略、つまり八大龍王と地蔵菩薩が合体したものと考えられます。八大龍王は水神、雨乞いの神で、それに田の神や塞の神(さえのかみ)としての性格をもつ地蔵菩薩を習合させたものと考えられます。昔話で田んぼ脇や路傍に立つお地蔵さまのイメージです。
御岳山を信奉する檀家講中に農家が多かったこと、現在の参道(北参道)は江戸時代初期に青梅街道が開発されてから表参道になったことから、この地蔵堂は、江戸時代以降に建立されたものと思われます。手前の「なかみせ」で最後の小休止を済ませた講中参拝者たちが、この地蔵堂にお団子を供えてこれまでの道中の安全を感謝し、いよいよ御岳山に足を踏み入れるために気合を入れ直した様子が目に浮かびます。
そうしますと、愛宕社の勝軍地蔵が辛うじて御岳山における地蔵信仰の痕跡ということになりますが、別の記録によれば、江戸時代初期、奥の院にも愛宕社が祀られていました。実は、愛宕権現の垂迹神のイザナミが黄泉の国で雷神に身を包まれた姿から、落雷が多い場所に愛宕社が設置されるケースが多々あり、実際、甲籠山や御岳山は落雷が非常に多く、そのため、これらの愛宕社を鏡鞍奉納の地蔵信仰由来説の根拠とするのはいささか無理があります。
(*1) 愛宕神社(京都)
全国の愛宕神社の総本社 崇徳上皇が天皇を呪詛し、武士の政治進出(保元の乱)のきっかけとなり、明智光秀が三回おみくじをひいて織田信長を討つこと(本能寺の変)を決意した、「武者の世」の始まりと終わりの二大イベントにからんでいます。
(*2) 御岳山の参道
狭義の御岳山―頂上に武蔵御嶽神社が鎮座する山―にはふもとから直接登拝出来るルートがありません。御岳山にはかつて「御嶽九口」と称された9つの参道がありましたが、すべて大きなピーク(大岳山、大塚山、富士峰、日の出山)を越えないと到達できないません。御岳山は文字通り“天然の要害”なのです。
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【 玉垣内の違和感 】
ここであらためて玉垣内をもう一度見渡しますと、立ち並ぶ摂末社の中にちょっと変わっているものがあります。それは本殿に背中を向けていて、覆堂の中に小さな社殿が祀られているのです。
巨福社(こふくしゃ)
といいます【画像1】。
場所は、玉垣内最奥部、奥宮遥拝所の一帯です。ちょうど大口真神社と向かい合うように鎮座しています。現在の祭神は埴山姫神(はにやまひめのかみ)という耕作に霊験あらたかな神で、社殿足元の土(*3)を持ち帰り畑にまくと虫がつかないというご利益があるそうです。ところが、新編稿の巨福社の祭神は大国魂命(大己貴命の別名)となっています。埴山姫神は、明治維新で大己貴命を本社の祭神とするにあたって、新たに迎えられた神と考えられます。
ここで問題にしたいのは祭神ではなく、「巨福社」という名前です。
巨福社は、社殿の立つ小山の名前「巨福山」から採ったものです。元禄時代の絵図面には単独の築山として描かれていますが、現在、大口真神社の高台とほぼ同化しています。
【画像1】 現在の巨福社の状況
(*3) 巨福社の土
現在、神符授与所で購入できます。品名「御砂(おすな)」
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【 山の頂上にある山 】
この巨福山、神坐す御岳山の頂上にある山、言うなれば、霊峰富士の頂きにさらに小山を築く、あるいは富士山の頂上部分に別の名前があるようなものですから、何か特別な理由があるに違いありません。
一般に、日本の仏教寺院にはたいてい山号(さんごう)というものがあります。例えば、延暦寺なら比叡山、金剛峯寺なら高野山、浅草寺は金龍山などなど。これら山号の由来は、その寺院の建つ山の名前や、開山した住職にゆかりのある寺の山号、経典の中に出て来る山の名前など様々です。そもそも山号は中国で同名のお寺を区別するために始められた風習で、そういう意味では日本の名字に近いものです。そして日本に禅宗が伝来した鎌倉時代は、中国では山号をもつ禅宗寺院が多く建てられた時期にあたり、その風習が一緒に伝わったのだそうです。その後日本で禅宗寺院が次々と建立されていく中で、それまで山号のなかったの古い寺院にも山号が付与されました。
そこで、巨福山ですが、中国の検索エンジン「百度」で調べても同名(「巨福山」または「矩福山」)の山はヒットしません(*4)。ところが、日本では非常に興味深い結果が出ました。
なんと、鎌倉の建長寺の山号が巨福山なのです【画像2】。
(*4) 「巨」は「矩」の略字のため
【画像2】 建長寺の総門
【 建長寺の山号の由来 】
鎌倉の建長寺は、わが国初の一向禅宗寺院です。「一向(いっこう)」とは”only”という意味です。日本の仏教寺院は古来8つの宗派(*5)を併置すること(諸宗兼学)が基本で、単修の寺院は認められませんでした。複数の学部学科があれば大学と認めるが、単科の場合は大学として認めないといったところです。しかしながら、当時朝廷権力をも凌駕した鎌倉幕府執権の北条時頼【画像3】は、そのような朝廷の規定や伝統を無視して建長寺を一向禅院として建立したのです。武家はもちろん(将軍は傀儡)のこと、朝廷(王法)および寺社(仏法)にも文句を言わせない時頼の権力の大きさのほどがうかがえます。
そんな北条時頼の絶大な権力の象徴ともいうべき建長寺の山号「巨福山」は、意外にも寺に面した通りの「巨福呂坂(こぶくろざか)」から採ったものです。極めてローカルなネーミングだったわけです。
さらに興味深いのは、本来、禅宗寺院の本尊は釈迦如来であるのに対して、栄えあるわが国一向禅院第一号である建長寺の本尊はなぜか地蔵菩薩なのです【冒頭画像】【画像4】。
(*5) 8つの宗派
南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗)と平安二宗(天台宗・真言宗)の総称。
【画像3】 北条時頼坐像(建長寺)
【画像4】 建長寺仏殿内部と本尊木造地蔵菩薩坐像(Wikipediaより・投稿者Tsuyosi chiba)
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【 建長寺の本尊の由来 】
これは、建長寺の境内が広がる谷は、元々「地獄ヶ谷(じごくがやつ)」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺(からだせん・しんぺいじ)(*6)という寺が建っていたことに由来します。時頼は旧寺の本尊をそのまま建長寺の本尊にしたのです。ちなみに、心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺にあるそうです。時頼の人柄が偲ばれます。すなわち、彼は権力に驕ることなく、むしろ自家の権力確立のためにこれまで先祖や自分自身が犯してきた様々な罪と人の恨みを一身に背負い、死者の鎮魂に心を砕いていたのです。しかし、時代の波は時頼の心情とは裏腹に、北条氏が鎌倉幕府内で専制政治を敷く方向に流れていくのです。
鎌倉幕府の最高権力者が創建したこのような”いわく付き”の寺院と同じ名前をもつ山を、御岳山はその境内の最奥部に有しているのです。前回説明した通り、将軍の知行国(関東御分国)で執権北条氏が国守を勤める武蔵国の杣保(そまのほ、国府用材の供給地)の鎮守たる御岳山にあって、これは決して単なる偶然の一致とは思えません。
【 結論 】
つまり、巨福社の存在が、御岳山における地蔵信仰の痕跡と言えるのではないでしょうか。そして、境内の中で特に巨福山の土だけが虫除けの「御砂」として農家に信仰されたのは、かつてこの場所で、本来の御祭神の鎮魂供養のために地蔵菩薩の護摩修法が営まれたことを示すものと考えられます。
一般に、護摩修法が営まれた後で残った灰は、薬やお守りとして珍重されました。御岳山の「御砂」は、巨福山の「護摩の灰(*7)」から転じたものと思われます。
さらに、巨福社を念頭において地蔵信仰を調べてみますと、鳥取県の伯耆大山(ほうきだいせん)は、古来、大己貴命を主祭神とし、神仏習合時代には大己貴命の本地仏として地蔵菩薩を祀り、地蔵信仰の中心のひとつとして非常に有名であり、しかも京都の愛宕神社は、ここから地蔵菩薩を勧請したとされており、上記の通り、巨福社に後年、大國魂命(=大己貴命)が祀られたことも整合性がとれるのです。
いかがですか?ちょっと安易な気持ちで御岳山に行けなくなったのではないでしょうか。
(*6) 伽羅陀山心平寺
伽羅陀とは地蔵浄土の意の梵語で、地獄谷の亡者救済の聖地とされました。
(*7) 護摩の灰
修法の目的・趣旨を板片や紙に記したものを護摩札といい、護摩木の燃え残りや灰を服用したりお守りとする信仰も広く行われ、高野山奥の院の護摩の灰は最も有名でした。そのため、高野聖の扮装をして弘法大師の修した護摩の灰と称して押売りや詐欺販売を行う者が横行し、それから転じて後年、旅人を装い、旅客の金品を盗み取る者を「護摩の灰」と称するようになりました。
「§6 御岳山における地蔵信仰の痕跡」おわり