武州御嶽840年目の真実 §5 御岳山の流鏑馬祭の謎(その2)
2025/9/15(月)
§5 御岳山の流鏑馬祭の謎(その2)
【 金覆輪円文螺鈿鏡鞍が流鏑馬祭で使用されたとする理由 】
当該鏡鞍を含めた御岳山伝来の5つの最重要宝器(赤糸威大鎧、金覆輪円文螺鈿鏡鞍、紫裾濃大鎧、鍍金長覆輪太刀、宝寿丸黒漆鞘太刀)はいずれも奉納年、奉納者、奉納のいきさつなど詳しい記録・文書等がありません。それでいて文化財的価値が極めて高く(国宝2点、重要文化財3点)、さらに御岳山祭祀の中心的存在です。日の出祭では、これら5つのうち、この鏡鞍を除く4つは使用されていました。現在でも宝寿丸黒漆鞘太刀を除く3つは供奉されます。
そして、日の出祭では、御祭神の乗り物、すなわち神輿の出御があります。ところが流鏑馬祭では、御祭神が斎主一行に随伴されて斎場にお越しになると説明しましたが、乗り物がありません。
これらの状況から、かつて、御祭神はこの鏡鞍を着けた神馬に乗って出御され、さらには御祭神自ら「魔物狩り」をお楽しみになったのではないかと思われます。
【 金覆輪円文螺鈿鏡鞍の奉納者とその経緯について 】
残念ながらいずれも不明です。これに対して、日本の甲冑研究の大家、故山上八郎氏は、その著書(*4)で、「安達氏の家紋は『連銭』であることが、『蒙古襲来絵詞』によって知られる。いま御岳神社にある鏡鞍の内側は、黒漆に螺鈿でこの連銭を据えている。これは従来、蛇の目とか円文とかいわれていたが、筆者はこれを連銭と見たい。そこでこの鞍を一応安達家の寄進とし、さらに同時代の大鎧(紫裾濃大鎧のこと)も同時に寄進されたものと考え(たい)」と述べられています。齋藤愼一氏も、「この鞍の円文が鎌倉幕府の要人で、陸奥守兼秋田城之介の安達泰盛の家紋の連銭紋と一致する点である。(中略)この円文螺鈿鞍の奉納者の可能性はあろう」とし、安達氏寄進説を一応支持しています。
私は、この鏡鞍の座面に無数に施された円文螺鈿がなす意味とは、
連銭であり、蛇の目(魔除け)でもある
と考えます。ただし、鏡鞍の奉納主を安達氏とするのは疑問で、その根拠とする円文螺鈿が安達氏家紋を表すことも否定します。
その理由は、鎌倉時代の奥多摩は、杣山(そまやま)と言い、武蔵国府の官舎や国分寺など官営の建造物や行事で使用する用材(木材や鉱物資源その他)の供給地として国衙の管理下にありました。そんな杣山の守護神であった御岳山は、限りなく公的な、国惣社や国分寺に準ずる存在であったと言えます。当時の武蔵国は、鎌倉幕府将軍の直轄国(関東御分国)のひとつで、かつ武蔵守は鎌倉時代を通じて執権北条氏が独占していました。つまり、名目上の統治者は将軍で、実質的な経営者は北条氏ということです。
そして鎌倉幕府とは、政教未分離の時代において鎌倉殿を長官(将軍)とする朝廷公認の軍事警察組織であると同時に、鎌倉殿を祭主とする軍神八幡大菩薩および歴代鎌倉将軍の御霊を奉斎する祭祀集団でした(*5)。幕府の本拠地鎌倉では鎌倉殿が鶴岡八幡宮寺の祭祀を主宰し、関東御分国では有力御家人が国司として国内の寺社を統括し、国内の公領や荘園では地頭御家人が領内の寺社を管理するという体制です。
安達泰盛は、上記の通り陸奥守兼秋田城之介の官職を帯び、寄合(よりあい、幕府の首脳会議)に参加する唯一の外様の御家人という実力者でしたが、御岳山ひいては武蔵国で公的権力を執行する権限(国司、地頭など)はありません。
したがって、将軍や北条氏を差し置いて御岳山に宝物を寄進する(その際に当然ながら祭祀も行われる)ことは、政治権力上重大な越権行為にあたり、あり得ないと思います。
次に、円文螺鈿が安達氏の家紋の連銭を表すという説ですが、確かに『蒙古襲来絵詞』に、安達盛宗(泰盛の次男)【画像1】が率いる軍船が連銭紋の旗を掲げているという記述があります。しかし連銭紋がすべて安達氏に関係あるものとするのは短絡的です。といいますのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、末法思想の流行に伴って、来世で極楽往生を願う浄土信仰と並んで、極楽往生できない(=六道輪廻を繰り返す)衆生を救う地蔵信仰が盛んであったからです。この世で殺生に明け暮れた者は修羅道に堕ち、また非業の死を遂げた者も極楽往生できないと信じられていたので、地蔵信仰は武士の間で広まりました。連銭紋の代表例の「六文銭」【画像2】は、俗に三途の川の渡し賃を意味すると言われる地蔵信仰の「冥銭(めいせん)」から派生したものです。この「六文銭(六連銭とも)」は真田家の家紋として有名である(*6)ことが示す通り、連銭紋が安達氏の占有物ではないのです。
さらに、当該鏡鞍の螺鈿の材料は奄美大島産の夜光貝であることがわかっています。このような南国の希少な材料を入手できるのは、伊豆出身で、伊勢常陸両国間の太平洋海運の中継ぎで財をなした北条氏のなせる業です。
したがってこの鏡鞍の、名目上の奉納者は武蔵国主の鎌倉将軍、実際は武蔵守の北条氏による寄進とするのが妥当です。
また奉納の歴史的な経緯は、別の機会に詳しく考えたいと思いますが、その背景には、この地蔵信仰を広めたのが修験者であったということ、そして御岳山は修験者に守られた霊山であり、かつ当時「金峯山浄土」と言われた奈良の吉野山をそっくり移植した山ということがあったと思われます。
【 結論 】
御岳山では、御祭神の乗馬として金覆輪円文螺鈿鏡鞍を装着した神馬が奉納されました。これは、御祭神は元々修羅道を彷徨う荒ぶる怨霊で、地蔵菩薩の功徳でこれを救い、その御魂を連銭にみたてた円文を付した鏡鞍を着けた神馬で浄土に送り出すことを意図するものでした。そして年を経て、御霊(ごりょう)となった御祭神は、浄土で解脱のために修行に励むものの、その激しい気性ゆえに時折湧き上がる荒ぶる気持ちを鎮めるために、年に一度、狩りを楽しんでいただくために催されたのが流鏑馬祭でした。獲物である魔物は仏敵であり討滅の対象でした。その際、御騎乗の神馬に着けたこの鏡鞍の円文を魔除けとしたのです。
【画像1】 安達盛宗が竹崎季長より報告を受けている様子 『蒙古襲来絵詞』より
【画像2】 六文銭(六連銭)
§5 御岳山の流鏑馬祭の謎(おわり)
(*4) 『日本甲冑100選』 山上八郎 1975 秋田書店
(*5) 軍事警察集団の鎌倉幕府が根本法典とする貞永式目の第一条と第二条には、武士の本分云々ではなく、神社と寺院を大切にせよと定められていることによく表れています。
第一条 神社を修理し、祭祀を専らにすべき事
第二条 寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事
(*6) 真田家の祖先の海野幸氏は弓の名手として源頼朝や北条氏に高く評価され、鶴岡八幡宮の流鏑馬等の重要な祭事で度々騎射を披露しています。