武州御嶽840年目の真実 §5 御岳山の流鏑馬祭の謎(その1)
2025/9/15(月)
§5 御岳山の流鏑馬祭の謎(その1)
【 御岳山の両祭 】
御岳山では、毎年9月29日に「流鏑馬祭(やぶさめさい)」が行われます。
このお祭りはかつて「陰祭(いんさい)」とも呼ばれていました。「陽祭(ようさい)」と呼ばれた例大祭「日の出祭」と合わせて「両祭」と称し、それぞれの祭礼所役を記録するなど非常に重要視していました。御岳山の二大祭礼と言えるものです。
ちなみに「日の出祭」は明治三十年代からの呼称ですが、「流鏑馬祭」は、少なくとも江戸時代にはすでにそのように呼ばれていました。
両祭は、「陰」と「陽」という文字通り非常に対照的です。先ずその開催時期ですが、日の出祭は春、流鏑馬祭は秋です。これだけなら他所の神社でもよく見られますが、開催時刻が特徴的です。日の出祭は朝、流鏑馬祭は夜です。少し詳しく説明しますと、日の出祭は、昔はその名の通り日の出とともに始まり早朝に終わりました。現在はいく分ゆっくりとなりましたが、それでも昼には終わってしまい、午後参拝するとすでにいつもの静けさで、その日大祭が行われていたとは想像もつきません。一方で、流鏑馬祭は、黄昏時(たそがれどき)に山上の神社での祭事で始まり、流鏑馬の会場では夕闇の中かがり火が炊かれ、これも2時間くらいで終わります。
「流鏑馬」と聞くと、長大な馬場で古式に則った衣装に身を包んだ射手と馬が疾走する勇壮な情景をイメージしますが、残念ながら馬は出ません。御岳山の流鏑馬は、本来の姿からかなりデフォルメされた、それだけに娯楽性を排した、神事色の際立ったものとなっています。
【 流鏑馬祭の概要 】
御岳山の流鏑馬祭は、随身門下の鳥居前広場(「町場」といいます)で行われます。
「斎場(*1)」となる町場では、四方に青竹を立て縄と紙垂で結界を張ります。そこに山上の神社で神事を終えた射手役と的役の若い神職が2名づつ階段を下りて来て鳥居下で待機します。その後しばらくしてから、斎主(宮司)一行が下りて来きます。射手役と的役が、斎主らに先立って現れるのは、かつて武士が外部から来山して流鏑馬を奉納する様を象徴しているそうです。そして斎主一行のお出ましの際、「オーイ、オーイ」と大声を掛けるのですが、これは御祭神が一緒であることを表しています。御祭神と斎主一行は階段を下り切らず、階上の鳥居の手前で流鏑馬を見届けます。
なお、お祭りの様子は、YouTubeの神社公式チャンネルでもご覧いただけます。
【公式PR動画】武蔵御嶽神社 / 流鏑馬祭
(*1) 「斎場」について
現在「斎場」と言えば一般に葬儀場を表しますが、本来は祭祀の儀式を行う清浄な場所を意味します。ただ不思議なのは、本稿出典の『御嶽神社の祭り』では、日の出祭を行う御岳平を「祭場」、流鏑馬を行う町場を「斎場」と書き分けています。これが意識されたものかどうか分かりませんが、同書の表記に従いました。
『御嶽神社の祭り』 御嶽神社 1996 白水社
【 中世の呪術性を色濃く残す夜の神事 】
流鏑馬祭の起源はいつ頃か不明ですが、武蔵御嶽神社の宝物殿を監修されている齋藤愼一氏は、「その所作に中世的な残影を指摘し、中世的祭礼であると結論したい」と述べています。であれば、戦国時代以前からということになりますが、さらに私はこの中の”中世的”という言葉を「政教未分離時代における政治的かつ呪術性の高い(祭礼)」と解釈します。したがって、通常日中に催される流鏑馬をわざわざ夕暮れ時に行うことに深い意味があるはずです。
キーワードは「黄昏時」「結界」「馬」の3つです。
1.黄昏時
御岳山の御師家に伝わる宝永三年(1706)の文書には、流鏑馬祭について、「毎年九月廿九日ご祭礼之儀、神主・社僧・御師、御神前へ相勤め、暮に及び、町場へ罷り下り」と記されているそうです。旧暦九月二十九日は現在の暦で10月20日前後、閏月であれば11月中旬です。したがって往時は、斎主らに伴われた御祭神が長い階段をゆっくりと下り、鳥居前に到着する頃には日もどっぷり暮れて、結界された斎場だけがかがり火に照らされて漆黒の闇に浮かび上がって見えたことでしょう。「暮に及び」とは、黄昏時のことです。「黄昏」とは、「誰(た)そ彼(かれ)?」の意味で、平安時代には日没後の人の姿は見えるが誰だかは分からないくらいの時間帯を表し、中世ではこのような昼と夜の境目を特に「逢魔時(おうまがどき)」と言い、冥界の扉が開いて魔物がこの世に出て来ると怖れられていました。
御岳山の流鏑馬は逢魔時を待って開始される、すなわち魔物狩りなのです。
2.結界
御岳山の流鏑馬が魔物狩りであることは、射手役たちの掛け声からうかがえます。流鏑馬は町場に張られた結界の中で執行されます。始めに「ようござりますか?」と声をかけ、次に「出します」と応え、矢を空中に放った後、「ま、射たりーっ!」と声を上げます。『御嶽神社の祭り』では、「ま、いたり」を(「魔、射たり」か?)とカッコ書きしています。次の「出します」が意味不明です。矢を放つことを普通「出します」とは言いません。つまり、これら一連の声掛けは、
「よろしいですか?(油断するな)」、「(魔物を)出します」、そして、「魔(物を)射たり」
と解釈できます。非常に危険で緊張感のある神事なのです。また若い神職を射手役・的役を勤めるのは、魔物に取り憑かれない体力を買われてのことだと思われます。そして万が一結界が破れた場合に備えて、御祭神は鳥居の内側(最強のバリヤ)で守られています。
3.馬
御岳山の流鏑馬もかつては馬が出ていました。ただし、本来の流鏑馬のように馬を疾駆していたかどうかは不明です。前述の通り、すでに宝永三年(1706)には町場で執行されています。この点について齋藤氏は、御岳山から日の出山に向かう尾根筋に「馬場旧跡」と呼ばれる平坦地があることから、そこが流鏑馬祭の旧祭場であったとし、通常の流鏑馬の的が3つに対して、御岳山の流鏑馬の的役が2名なのは、この馬場跡が規定の二町(約200m)に足りないことの名残と推理しています。
ところで武蔵御嶽神社には、赤糸威大鎧のほかに、もうひとつ国宝があります。「金覆輪円文螺鈿鏡鞍(きんぷくりん・えんもんらでん・かがみくら)」【画像】です。700年以上前の鎌倉時代の馬具が一式(*2)揃っている国内唯一の遺例として極めて貴重な御神宝です。特に、「三懸(さんがい)」という繊維部品が完存していることが奇跡とされています。さらに注目すべきは、鞍の座面一面に施された円文螺鈿が一枚も損なわれていないことです。
つまり使用痕がない(*3)、したがって当然ながらこの鏡鞍は人用ではなく神馬(御祭神の乗馬)に供されていたものです。しかし残念ながら、この鏡鞍が流鏑馬祭で使われていたのかどうかは詳しい記録がなく不明です。一方日の出祭では、かつて神馬が出ていたことが分かっています。興味深いのは、その名残として現在供奉されているのが、この鏡鞍ではなく、別の和鞍(蒔絵鞍、戦国時代)であるということです。
では流鏑馬祭でどうであったのか?
私は流鏑馬祭にこそ、この金覆輪円文螺鈿鏡鞍を着けた神馬が出ていたと考えています。
それは次の理由からです。(つづく)
【画像】 金覆輪円文螺鈿鏡鞍
(*2) 馬具一式
鞍・轡(くつわ)・鐙(あぶみ)・三懸(さんがい、面懸・胸懸・尻懸の総称)
画像の出典 刀剣ワールド
(*3) 使用痕がない
鐙の踏込(ふんごみ、つま先の部分の内側)の塗装が剥げています。齋藤氏は、これを実際に人が乗馬した形跡としています。私は否定。古式に則れば流鏑馬の騎手は、膝を開いて鐙の上では、つま先を外に向けて踵で踏ん張る、または親指と人差し指で鐙の外縁を挟み込むので、踏込が剥げることはありません。逆に踏込が剥げるほど使用したのなら、踵部分や鐙の縁などもっと擦り減っているはずですが、そうした形跡は皆無です。