武州御嶽840年目の真実 §4 御岳山のヤマトタケル伝説の真相
2025/9/7(日)
§4 御岳山のヤマトタケル伝説の真相
【 御岳山のヤマトタケルの初見 】
御岳山におけるヤマトタケル(*1)伝説は、おもに大口真神の由緒(東国遠征中の尊一行を苦難から救ったエピソード)の中で語られていて、一般的にはそのような形で知られていると思います。
ヤマトタケルとオオカミの出会いが描かれた『日本書紀』の近世における刊行は、慶長四年(1599)を最古として以降断続的に重版されています。また、ヤマトタケルが甲冑を埋納したことが「武蔵」国の名前の由来となったという話は、記紀(『古事記』と『日本書紀』)にはなく、寛文二年(1662)刊行の『江戸名所記』の冒頭で語られています(画像1)。著者の浅井了意(あさいりょうい)は京都出身の仮名草子作家で、本書は上方の人向けのガイドブック的なものですので、これらヤマトタケルが絡んだ2つの伝説は、江戸時代の早い時期にすでに民間に広く知られていたものと思われます。
そんな中で、御岳山におけるヤマトタケルの初見は、元禄十二年(1699)銘の御岳山および周辺の様子を描いた絵図面です。その中の、奥の院(現在の奥宮、山名は甲籠山)に「武尊▢院」(▢は判読できない文字、奥か?)と記されています。また、享保四年(1719)に御岳山が寺社奉行に提出した神宝目録の中では、紫裾濃大鎧(重要文化財)が、「卯花(うのはな)をどし御鎧」「日本武之尊御召と申伝候」と紹介されています。前回述べた通り、大口真神のお札(御神狗)の配布は、早くても享保年間(1716~1736)以降ですので、御岳山におけるヤマトタケル信仰は、その頃にはすでに定着していたと言えます。
つまり、御岳山におけるヤマトタケル伝説は、大口真神のお札の権威付けとして後から持ち込まれたものではなく、それ以前からすでに御岳山信仰の主要な存在であったわけです。
ではいつ頃から御岳山でヤマトタケルが信奉されるようになったかですが、残念ながら現状不明です。ちなみに、同様のヤマトタケルの甲冑埋納伝説をもつ秩父の武甲山も、ちょうど同じ元禄の頃から人々に語られるようになったとされています。同じ関東西部の山岳地帯で、いずれも畠山重忠とのゆかりも深い2つの霊山(*2)が、平野部における国学の隆盛に先行して山岳部でヤマトタケルが信奉されるようになったのは、何か共通する要因があったのではと感じるのです。
(*1)ヤマトタケル(ノミコト)の漢字表記は、『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命です。
(*2)「御嶽」がその国の主峰を表すのであれば武蔵国の最高峰である武甲山こそ武蔵御嶽にふさわしい。
【画像1】 『江戸名所記』の冒頭「武蔵国」の項
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【 ヤマトタケルと修験道 】
一般に「武士の時代」といわれる中世(平安時代末期から戦国時代後期)において、ヤマトタケルは、『平家物語』や『太平記』に代表される軍記物にも登場します。しかしその内容は、ヤマトタケルを武人の英雄としてその活躍にスポットをあてたものではなく、もっぱら草薙剣(くさなぎのつるぎ)の霊験を語る上で、それに付随する人物として描かれています(*3)。もし武士全盛の時代に、ヤマトタケルが日本の東西を股にかける優れた武将として世の武士たちに認識されていたら、彼を軍神・武神として崇める神社がもっとたくさんあってもいいはずです。ところが、中世を通じて最も有名な軍神・武神はもっぱら八幡神(神仏習合的には八幡大菩薩)であることからも、当時の人々の間では、ヤマトタケルの存在はかなり薄いものだったと考えられます。
結局ヤマトタケルが武人の英雄として再認識されるようになったのは、近世(戦国時代末期以降)になってからと考えるのが妥当のようです。そしてヤマトタケル伝説を流布したのは修験者であったと考えられます。それはヤマトタケルが修験道の守護神である金剛蔵王権現にしばしば同一視されていることからうかがえます。
なお、御岳山におけるヤマトタケル信仰の起源は不明と上述しましたが、おそらく御岳山でもその頃から信奉されたものと思われます。そして御岳山の場合、ヤマトタケルは、金剛蔵王権現を祀る御岳山山頂から遥拝する甲籠山の奥宮(旧奥の院)に祀られています。しかも社殿の位置関係からヤマトタケルの方が上位です。つまり御岳山では、ヤマトタケルが、金剛蔵王権現とは別個の、かつ上位の尊格として信仰されていたことになります。
ではなぜ修験者はヤマトタケルを、彼らの守護神である金剛蔵王権現と同一視、さらに御岳山においてはそれ以上の存在として信奉することになったのでしょうか。これには、ヤマトタケルの伝説的英雄とは異なる側面と、修験道の本質とに密接に関わっていると考えられます。
(*3)「古代・中世のヤマトタケル―変貌する神話」 磯前順一 2011 東京大学大学院
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【 ヤマトタケルに仮託されたもの 】
関裕二氏によれば、修験道とは、奈良時代、朝廷政治を牛耳る藤原氏の母体である中臣氏によって、宮廷祭祀を独占され、排斥された忌部氏(いんべし)ら日本古来の神道を担っていた氏族が、反藤原・反中臣の立場で編み出した「反骨の宗教」だといいます(*4)。以来、修験道は、中臣神道では救われない民衆や藤原氏によって朝廷政治から抹殺された人々の無念の思い―それは生身の人間の怨念から非業の死を遂げた人々の怨霊―を糧に成長し、体制側から放逐された人々を受け入れて勢力を拡大し、その後は歴史の舞台裏で暗躍する存在となりました。
そしてヤマトタケルのもうひとつの側面というのは、『日本書紀』の中の華々しく活躍する英雄「日本武尊」とは対照的に、その猛々しさゆえに父帝に疎まれ、兄の代わりに東西の征旅に赴き、最後は都への帰還を憧れつつ彼の地で命を落とした、『古事記』に描かれる、嘆きの武将「倭建命」の姿です。
この2つに共通するのは、元々は体制側にありながら、なまじ実力があるゆえに危険視され、排除され、帰還を望みながらも叶わず没落または横死した存在、ということになります。
御岳山でヤマトタケルが奥の院に祀られたのは、そんな彼の境遇が甲籠山に鎮座する本来の祭神のそれに非常に似ていたためと思われます。
ではなぜ本来の祭神をヤマトタケルの名でカモフラージュしなければならなかったと言えば、江戸時代のはじめ、御岳山は徳川家康に武装解除と江戸城鎮護の祈願に専念することを条件に、社領の安堵と社殿の建て替えが幕府直営で行われ、それ以後寺社奉行直支配の格式をもつ、御公儀直轄待遇の霊山となりました。そのような立場上、図らずも反体制的な境遇に陥れられた本来の祭神の御霊(みたま)を実名のまま奉斎することが憚られたため、当時の御岳山の人々が、上古の英雄の名を借りることで、その祭祀を守ったものと考えられるのです。
(*4) 関裕二氏著 『闇の修験道』 2015 KKベストセラーズ 【画像2】
【画像2】
「御岳山のヤマトタケル伝説」おわり