武州御嶽840年目の真実 §7 大鎧があらわす“カタチ”(その1)

2025/11/8(土)

§7 大鎧があらわす“カタチ”(その1) 


青梅市の西端、標高929メートルの御岳山の頂上に鎮座する武蔵御嶽神社は、かつて「武州御嶽権現」の名で知られ、御神宝として源平時代の赤糸威大鎧(国宝)を所蔵しています。


【画像1】 平治物語絵巻・六波羅合戦巻(模本19世紀狩野養長・遠山記念館)


豪壮華麗な姿と鮮やか色彩で源平の合戦絵巻を飾る大鎧(おおよろい)【画像1】は、日本の甲冑で最も格式が高く、後に「式正の鎧(しきしょうのよろい)」と称され、正統な武士の家系であることの証しとされました。その一見不格好とも思える独特なフォルムは、通説では、騎射戦(馬を疾駆して弓を射る戦い)に適した“カタチ”であるとされておりますが、果たして本当にそうなのでしょうか?


【 草摺について 】

“独特なフォルム”と表現した最たる部分は、腰下のスカート=草摺(くさずり)です。この電車ごっこでダンボール箱を抱えたような箱形の部品は、一般に大腿部(太もも)を守るためのものと説明されています。しかし、それにしてはご覧の通りあまり隠れていません【画像2】。四隅にスリットが入っていますが、馬にまたがった状態でもご覧の通り大きく割れたスリットの間から出た太ももががら空きです【画像3】。ちなみに、2つのスリットの間を「間(けん)」といい、大鎧の草摺は四間ということになります。


【画像2】 大鎧をつけた武将(日本服飾史より)


【画像3】 騎馬武者像

従来像主は、室町幕府初代将軍の足利尊氏とされていましたが、近年は執事(側近のこと)の高師直とも、やはり尊氏だとも言われ、論議を呼んでいます。

 

四間の草摺が特徴で、重厚精緻な作りの大鎧は、まさに源平時代の11世紀末から12世紀末の間に様式が完成され、貴族(上級クラスの公家)や有力武将が着用していました。そして、配下の中下級武士は、草摺が七間・八間の軽量で比較的簡素な作りの甲冑(腹巻・胴丸)を着用していました【画像4】。

【画像4】 腹巻・胴丸をつけた武士(日本服飾史より)


その後大鎧は、戦闘方法の変化に対応してマイナーチェンジを重ね、14世紀後半ごろまで実戦で使用されました。しかしそれ以降は、馬上の武将も腹巻・胴丸を着用するようになります。それは、斬撃戦が主流となり、動きやすい甲冑が求められたためと言われています。しかし、騎射戦が主流であった時代は同時に一騎討ちの時代でもありました。一騎討ちは、始めこそ騎射戦ですが、矢種が尽きれば太刀討ちとなり、程なく組討ち(取っ組み合い)に移りました。つまり、


騎射戦主流の時代であっても、大鎧は戦い全体の3分の1しかその特性を発揮できなかった


ことになります。


大鎧をモンゴル軍の騎兵と比較するとその違いは一目瞭然です【画像5】。当時世界最強とも言われた彼らの甲冑は裾が長く、しっかり太ももから膝周りまで防御しています。また、スリットは前後の二間です。

【画像5】 モンゴルの騎兵 モンゴル政府宮殿に立つボオルチュ(チンギス・ハン家臣)像


つまり大鎧は、運動性で腹巻・胴丸に劣り、また草摺は四間であれ、七間・八間であれ腰回りの防御のみで、太ももから膝下はほぼ無防備である以上、四間の草摺が特段、騎射戦の際に防御性を発揮するわけではなく、そもそも大鎧が実戦に適した甲冑であるということ自体かなり眉唾です。


§7 大鎧があらわす“カタチ” (つづく)

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