武州御嶽840年目の真実 §7 大鎧があらわす“カタチ”(その2)

2025/11/9(日)

§7 大鎧があらわす“カタチ”(その2)


【 兜について 】

次に、兜(かぶと)にも疑問点があります。源平から鎌倉時代の大鎧の兜の登頂部には、「天辺の穴(てへんのあな)」【画像6】がありました。穴の大きさには個体差があるのですが、大きい場合はここから髻(もとどり、ちょんまげを束ねた部分)を出してあご紐を結ぶと兜がしっかり固定されるというメリットがありました。また小さい場合は萎烏帽子(なええぼし)の先っちょだけ出していました。

【画像6】 大鎧の兜(鎌倉時代の兜をもつ甲冑師加藤一冑氏)


天辺の穴が小さい個体があるのは、ここがウィークポイントでもあったからです。『平家物語』には、ある武将が配下の騎馬武者に、「敵軍の旗を見ようと顔を上げて顔面を狙われるな。かと言って前かがみになり過ぎて天辺の穴を射られるな」とアドバイスする場面があります。当時の武士の極めて高度な弓射技術もさることながら、そのようなリスクがあるならば、初めから穴など無ければいい話です。事実、古代の甲冑の兜に天辺の穴はありません【画像7】。そして源平時代をピークにだんだん穴は小さくなり戦国時代には消滅します。

【画像7】 古墳時代の兜


つまり、戦闘方法が、

古代の徴兵制による集団戦→中世前期の武芸、特に弓矢に秀でた者どうしの個人戦→中世後期の集団による斬撃戦

という変化に対して、兜は、

穴なし→穴あり→穴なし

という不合理な変遷をたどっているのです。加えて、頭頂部に穴が開いた状態で鉢を成形する技術はそうでない場合と比べて格段に難しいのです。

ではなぜ、草摺を四間の箱形にしたり、兜のてっぺんに穴をあけるという、実戦の場における効果が薄い、むしろリスクが大きい仕様に、わざわざ手間ヒマをかけてしていたのでしょうか。

その答えのヒントを古代ローマに求めました。


【 威儀物としての大鎧 】

古代ギリシアやローマ戦士が着用していたスカートは、男らしさ=強さや威厳の象徴だったそうです【画像8】。つまり、機能性を追求した装備ではなく、ステイタスシンボルだったわけです。

【画像8】 ロリカ(古代ローマの鎧)を着たローマ皇帝シーザーの像


ふり返って、


あの豪壮華麗な大鎧の発祥は、意外にも京都の公家社会でした。


あのド派手な色遣いや金銀のメッキをほどこした金具類、兜の前面に挿した長大な鍬形、戦場の遠目からでは全く認識できないような細部にわたる精緻な細工、あらゆる素材を贅沢に使い、その結果、いくら重量が増えても馬に乗ることで着用者に負担がかからないからOKみたいな仕様になりました。しかし、ひと度馬から降りれば、太刀や矢を束ねた箙(えびら)などが加えると優に30kgは下らない重量を両肩だけで背負っていました。例えて言えば、小学校3~4年生の児童を肩車した状態で戦わなければならないわけです。これらの装備が、激しい戦闘を想定しない馬上の貴族が宮廷儀式や京都市中での諸活動を想定したものであるとすれば合点が行きます。


そのようなステイタスシンボルとしての意味合いが色濃い大鎧が、それでも実戦で使用されていたことは間違いないようですから、ではなぜ、当時の武士は、そのような大鎧をわざわざ都で買い求め、着用していたのでしょうか?


それは、地方の武家社会の状況が大きく影響しております。地方在住の武士は、都にのぼり、護衛や邸宅の警備等の奉仕活動で貴族とのコネを作り、朝廷の官職を得ることで自身の権威を高め、地元における様々な問題や紛争を有利に解決を図ろうと努めていました。そうした中で、

都の雅な風情を醸し出す大鎧は、地元のライバルや領民に対して、

官職を得た自身を権威ある存在として視覚的にアピールする上で絶大な効果を発揮した

ものと思われます。


§7 大鎧があらわす“カタチ”(つづく)

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