武州御嶽840年目の真実 §7 大鎧があらわす“カタチ”(その3)
2025/11/10(月)
§7 大鎧があらわす“カタチ”(その3)
【 兜にみる武士の信仰心 】
日本の兜の特徴のひとつに「前立(まえたて)」があります。前立とは、兜の前面についている装飾物の総称で、「鍬形(くわがた)」はその代表例です。源平時代から鎌倉時代中期ごろまでの兜には、基本的に前立はつかず、鍬形は大将クラスの武士のみ装着していました。これは、魔除けや敵に威圧感を与えるだけでなく、味方の大将とその他配下の身分を区別する指標でした。しかしその後、南北朝の混乱期に秩序が崩壊し、下級武士も鍬形をつけた兜を着用するようになりました。また同じ頃に、中央に宝剣や鏡など呪術具をはめ込んだ「三鍬形(みつくわがた)」が登場します。さらに戦国時代には、武将の趣味や信奉する神仏をモチーフにした様々な形の前立が出現します。
【画像9】 兜の星と鍬形のうつりかわり
このように兜の前立の変遷だけを見ますと、源平や鎌倉時代より、後の南北朝や戦国時代の武士の方が信心深くなったように見えますが、決してそんなことはありません。
甲冑の製造および備蓄は高いコストと高度な技術を必要とするため、9世紀以前は官製、つまり国衙や大内裏の工房で行われていました。しかし、10世紀に入り、唐が滅び対外戦争の脅威が薄れると、朝廷は国家的な軍事力を放棄し、徴兵制度の末端機構であった地方行政は国司に一任されました。それに伴い官衙(国や地方の役所)の再編が進みました。その際、官営工房から失業した多数の工人(専門技術者)たちを受け入れていったのが、奈良の興福寺や比叡山延暦寺を代表とする大寺社だったのです。
ところが11世紀をピークに世界的に冷涼化が進み、日本国内では凶作と飢饉、疫病が慢性化して、その結果、治安が悪化すると、公権力では対応し切れず、国司や貴族は自衛のために武士を雇い、寺社は僧兵を養いました。そのような状況下、万人が―上は王族・貴族から下は庶民に至るまで―、末法思想や浄土信仰を抱き、因果応報論を語り、現世を忌み来世の極楽往生を希う(厭離穢土欣求浄土)中で、大寺院が支配する境内都市で多くの専門技術者が仕事に従事していたのです。ということであれば、境内都市で製造される甲冑を含む品物に仏教の救済の思想が反映されるのはごく自然な流れであると考えます。
では、甲冑のどの部分に仏教思想が見て取れるでしょうか。
最も分かりやすいのはやはり兜です。
【 きっかけは1本の映画 】
むざんやな かぶとの下の きりぎりす
これは、『奥の細道』にある一句です。芭蕉が、加賀国(現在の石川県)にある多太神社に立ち寄った際に、源平時代の老将斎藤実盛の兜を見て、往古のつわものの盛衰にもののあわれを抱いて詠んだものです。
実は、この句を含めた3つの俳句をモチーフにした殺人事件を描いたミステリー映画作品があります。犯人は、それぞれの句に含まれている事物を殺害現場にしつらえるのですが、上記の一句に基づいた殺人は、被害者が釣鐘の下(中)に閉じ込められた形で発見されました。それを見た私は、寺の梵鐘を兜に見立てることが世間にあることを知りました。
初期の兜には、大きな突起物が並んでいます。この突起物は「星(ほし)」といい、兜を形成する鉄板をつなぎ合わせる鋲が大型化したものなのですが、通説では敵の矢や太刀の直撃をかわしたり、衝撃を和らげたりする機能があったとされています。私は、この星には実用的な目的もさることながら、本質は梵鐘の上部にある突起物=「乳(ち)」と同じ意味があったのではないかと推理します。そして、梵鐘の乳は仏陀の螺髪(らほつ)を表しています。つまり、兜は仏の頭部を模しており、これをかぶる者は仏の加護が得られると考えられていたのではないでしょうか。兜の星は、時代が下るとともにだんだん小ぶりになり、最終的に消滅します。実は、この星が完全に消滅するタイミングに合わせるように、中央に仏具をあしらった三鍬形が登場するのです【画像9】。
では、兜が仏の頭部を表しているとすれば、鎧は何を表しているのでしょうか。
あらためて、大鎧全体の“カタチ”を見てみますと、なぜか既視感が湧くのです。
ここでのポイントは、大鎧の四間草摺は、七・八間の腹巻・胴丸が、胴体部分と連続しているのに対して、「蝙蝠付(こうもりづけ)」【画像10】という革部品を介することで、意図的に箱形に成形している点です。
【画像10】 蝙蝠付 赤糸威大鎧(模造・小野田光彦・東京国立博物館蔵)
答えはこれです【画像11】。
【画像11】 五輪塔(京都・岩船寺)
【 院政と強訴の時代 】
大鎧の様式が完成したとされる11世紀末から12世紀末当時の世相は、「院政(いんせい)」と「強訴(ごうそ)」の全盛期でした。前述の通り、冷涼化による天候不順で農作物の収穫量が減少し、疫病や飢饉で生産力が低下すると、国司や荘園領主が年貢を苛烈に取り立てました。地方の公領や荘園の人々はそれらに対抗するべく、村内の寺社に訴え、地方寺社は畿内の延暦寺や興福寺などの大寺社に訴え保護を求めました。
大寺社は、地方寺社からの訴えを原動力にして、京都の朝廷に対して強訴に打って出たわけですが、その際、神木や神輿を担ぎ出し、神と仏両方の威力をもって圧力をかけました。当初、朝廷は断固たる態度で鎮圧にあたりましたが、鎮圧を主導した当時の関白(天皇の補佐役)が急死すると、貴族たちは神威に触れ仏罰に当ったものと考え、その後誰も手出しができなくなってしまいました。
当時、国の政治を主導していた白河上皇は、もともと治安の悪化した都における自衛組織として設立した私兵集団「北面の武士」を、強訴に対抗するべく出動させましたが、上記のような事件が起きると、武士たちには決して攻撃せず防御に徹するよう無理くりな命令を出しました。一方、武士たちも神威や仏罰を怖れ神木や神輿を前に下馬し、手にした弓を引っ込める在り様でした。そこで上皇は、北面武士たちを検非違使に任じ、公権力たる立場を付与し、その後、自身も出家して法皇となりましたが、強訴に対しては有効な抑止力にはならなかった模様です。
それが当時、「治天の君(ちてんのきみ)」として王法(朝廷政治)と仏法(宗教界)両方の頂点に君臨する最高権力者であった白河法皇をして、
「意の如くならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師(延暦寺のこと)の三つのみ」
と言わしめたのです(天下三不如意)。
【 強訴対抗の起死回生策 】
ここからは私の仮説となりますが、次の鳥羽上皇(後に出家して鳥羽法皇)は、こうした状況を打開すべく一計を案じたと思われます。 鳥羽法皇は、覚鑁(かくばん)という真言宗の僧侶に深く帰依し、彼を手厚く保護しました。覚鑁は、五輪塔の普及に大いに貢献した人物と言われています。五輪塔自体はすでに存在していましたが、覚鑁は、自著の中で、塔の姿を仏教(密教)の最高仏である大日如来が座禅して印を結んでいる姿とみなし、どのような仏を信仰していても成仏できる仏塔の形であると説きました【画像12】。その結果、五輪塔が宗派を超えて多くの人々に広まりました。また、初期の五輪塔は、「三角五輪塔」と言って、現在私たちが目にする五輪塔の屋根(傘)の部分のような反りのある四角錐ではなく、三角錐でした。
【画像12】 覚鑁が説く五輪塔のイメージ
この形は、まさに大鎧を着用した武者そのものです。
そして、鳥羽法皇は幼少期から三角五輪塔を間近で目撃していた可能性が高いです。それは、祖父白河上皇(当時)が出家する動機となった最愛の中宮賢子(けんし)の崩御の際、その遺骨を納めた舎利器が金銅製の三角五輪塔だったからです【画像13】。幼少の鳥羽は、すでに治天の君としてこの世の頂点に君臨していた祖父白河が、多くの公家や僧侶を従えて、亡き祖母の遺骨を納めた五輪塔を一心不乱に拝む姿をその目に焼き付けたことでしょう。そして治天の君でさえひれ伏す五輪塔の力を幼心に深く刻んだに違いありません。
【画像13】 金銅製三角五輪塔(奈良国立博物館のパンフレットより)
そんな鳥羽が、治天の君として、覚鑁の著作からヒントを得て、あるいは本人からアドバイスを受けて、
五輪塔を模して、北面の武士たちが着用する甲冑に改良を加えたのが、
あの独特なフォルムをした大鎧だったのではないでしょうか。
また覚鑁が主導した高野山も南都北嶺同様、巨大な境内都市を擁し、多数の僧兵を抱え、武器を製造・備蓄していましたが、後白河院政期の悪僧の乱行を禁止する法令の対象外であったところを見ますと、政府与党として武具甲冑を朝廷や院に供給していた可能性があります。
さしもの悪僧たちも、検非違使という警察権力と大日如来という密教の最高仏という2つの権威を“カタチ”にした大鎧を身にまとった武士たちに対しては、分が悪いと感じたのかもしれません。
その効果であったのかどうかは定かではありませんが、院政最盛期といわれる3上皇(法皇)が治天の君であった時代の強訴の回数は、
- 白河院政期(1086~1129=43年)29回
- 鳥羽院政期(1129~1156=27年)8回
- 後白河院政期(1158~1192=34年)25回
と、鳥羽院政期は極端に少ないのです。
大鎧は、仏と同化した“戦わない”武士の象徴であったのです。
§7 大鎧があらわす“カタチ”(おわり)