武州御嶽840年目の真実 §8 大久保長安と釣灯籠の謎(その1)
2025/12/14(日)
§8 大久保長安と釣灯籠の謎(その1)
【 慶長十一年の社殿造替と大久保長安 】
慶長八年(1603)二月、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きました。三月には早速江戸の町(町方、まちかた)の開発を本格的に開始します。まず神田山を切り崩して譜代大名・旗本の屋敷地である山の手を拡張(後の駿河台)し、またその土で日比谷入江を埋め立てて外様大名の屋敷地(後の大名小路、現丸の内と有楽町)を造成しました。そして翌慶長九年六月、江戸城を徳川家の城から天下の府城とすべく、西国の大名に石材と材木の調達・運搬を発令しました(第一次天下普請)。これ以降三代将軍家光の時代の第五次天下普請までの30年の長きにわたり、江戸城の拡張工事は続けられます。
その一方で家康は町方を取り巻く郊外(地方、じかた)の開発も進めました。この時徳川家の領国250万石のうち、家康の直轄地(いわゆる天領)である100万石の経営一切を取り仕切ったのが4人の代官頭(だいかんがしら)です。中でも武蔵国西部の八王子を拠点として最も広い地域を担当したのが「天下の総代官」と称された大久保長安(おおくぼながやす、1545~1613)【画像1】でした。
【画像1】 伝大久保長安像(佐渡市大安寺蔵)
『大久保長安に迫る―徳川家康の天下を支えた総代官―』(揺籃社,2013,大久保長安友の会発行)より
後に日本最大の消費地となる江戸の町方を中心として、これを取り巻く武蔵国郊外と相模国は生産地であると同時に、さらに外縁の関東諸国から送られる物資の集積地でもありました。そして非常時には攻め登る敵勢から江戸を守る防壁としての機能が期待され、その開発の成否は江戸幕府にとって経済と軍事の両面において戦略上極めて重要でした。
そのような状況下で、武蔵国の最西部の西多摩に鎮座する武蔵御嶽神社(当時の名称は、武州御嶽蔵王権現)では、慶長十年(1605)家康の命令により、二代将軍秀忠を大檀那(*1)、大久保長安を総普請奉行として、ほぼ再建に近い大規模な修築工事が行われました。社伝によれば、この時これまで南向きであった社殿を江戸城鎮護の祈祷所とするために、現在の東向きに変更したとされています。また同年、武蔵国総社の大國魂神社(当時は六所宮)も長安を奉行として再建されています。翌慶長十一年(1606)八月、新社殿は落成し、この時家康は太刀と神馬を奉納したとされています。この修築工事が家康の強い意向によるものであることを示しています。
(*1)金井家に伝わる造営棟札の写書には「大檀那従一位右大臣源朝臣家康」と記されています。但し、家康は慶長八年(1603)に右大臣を辞任しており、秀忠の右大臣就任は慶長十九年(1614)です。
なぜなら、慶長十年(1605)は、家康が将軍職を世嗣秀忠に譲り、将軍は徳川家の世襲であることを天下に示し、自身は駿府(駿河国府中)に隠居していわゆる「大御所政治」を開始した年だからです。家康は同年正月早々江戸を発ち、京都で将軍職を秀忠に継承した後駿府に隠居し、以後西国対策(朝廷および豊臣家と西国大名)にあたるわけですが、江戸を離れるにあたり、新将軍と若い幕閣に御岳山新社殿造営事業を宿題として課したということです。
将軍職ひいては天下人の継承、特に初代から二代目の難しさは歴史の語るところです。古くは源頼朝から頼家(頼家の親裁停止、御家人十三人の合議制)、足利尊氏から義詮(観応の擾乱)、近くには織田信長から信忠(本能寺の変)と名だたる武家が没落または大きな内乱を引き起こしています。『吾妻鏡』を始め多くの歴史書を愛読していた家康は、このことを十分承知していたと思われます。ましてや大坂には未だ豊臣家が健在で、新将軍と若い幕閣にひとたび失策あらばいつでもひっくり返される危険性は十分にありました。
したがって家康は万が一に備えて、奥州道、東山道(のちの中山道)、東海道、そして海路(江戸湾)の4方面から最も遠い武蔵国西部地域の支配を確実にし、最悪の場合を想定して御岳山を幕府(江戸城)の“詰の城(つめのしろ*2)”とするつもりだったと考えられます。このことは大坂城を江戸城の“馬出(うまだし*3)”と豪語したという彼の逸話もあり、あながち絵空事とは言えません。
(*2) 詰の城・・・領国が敵に攻め込まれた時に領主が立て籠もる最終的な山城のこと。御岳山の要害っぷりは、別の機会にあらためて紹介します。
(*3) 馬出・・城の虎口(こぐち、出入口のこと)を守る小さな曲輪で、城兵の出入りを安全に行う施設のこと。
さらに慶長十年は、家康が太閤秀吉の享年と同じ六十二歳となった年にあたり、自身の死期を意識し、いずれ御岳山を自分の霊廟とする構想の前段階として、先ず江戸城鎮護の祈祷所にするという名目で、代官支配ではなく幕府が直接支配することを目指したものとも考えられます(シリーズ第1回「徳川家康はなぜ日光を選んだのか?」参照)。
一方、総奉行を務めた大久保長安は、慶長十年(1605)の家康の駿府下向に随行しており、以後、多摩および関東内陸部の開発は配下の代官衆(関東十八代官)に遠隔で指示を与え、自身は各地の鉱山の経営や街道の整備などの全国規模の仕事に従事することになりました。つまり、長安は、関東の代官頭という立場ではなく、大御所家康の側近という立場で御岳山および大國魂神社の社殿修復の総奉行を務めたということになるわけです。
【 長安奉納の釣灯籠の謎 】
さて、武蔵御嶽神社には、この慶長期の社殿修復と同時期に大久保長安が奉納した釣灯籠が伝わっています。それには「大久保石見守敬白」「奉寄進武州三竹蔵王権現」「慶長十一年丙午十一月吉日」【画像2】と銘文が彫られています。不思議なことに、落成月と銘文の月に3ヶ月の開きがあります。自身が総奉行を務めた建築工事の完成祝いの奉納品、しかも釣灯籠という社殿の装飾品にこんなことがあり得るのでしょうか。
【画像2】 大久保長安奉納釣灯籠と銘文
『御神宝 武蔵御嶽神社 宝物集』 2023 武蔵御嶽神社発行より
この修復事業については、工事費用(釘代・人件費)を計算した覚書(写本)が伝わっています。それには「慶長十一年六月吉日」と記されています。将来の参考とするための「覚書」ですから、常識的に考えて確定した数値でないと意味がありません。したがって工事自体は六月には完了していたと考えていいと思います。「八月」落成としたのは、徳川家康が関東に入部した「八朔(八月一日)」にちなみ、縁起を担いだものと考えられます。そうしますと、社殿の実際の完成月との開きは、さらに広がりこそすれ3ヶ月より縮まることはないと思います。
この謎を調べるため、現在全国で判明している長安の釣灯籠について、その記銘の年月を早い順に並べると下記の通りになります。
① 「慶長十年(1605)九月 足利大日堂」 ・・・鑁阿寺(栃木県足利市)
② 「慶長十年(1605)十一月 戸隠大明神」 ・・・戸隠神社(長野県)
③ 「慶長十一年(1606)十一月 春日社」 ・・・ 春日大社(奈良県)なお、慶長九年には大鳥居を寄進
④ 「慶長十一年(1606)十一月 武州三竹(ママ)蔵王権現」 ・・・ 武蔵御嶽神社(東京都)
⑤ 「慶長十三年(1608)正月 石州高津之人丸」 ・・・ 高津柿本神社(島根県)
⑥ 「慶長十三年(1608)三月 豆州加茂郡那賀神社」 ・・・ 伊那上神社(静岡県)
⑦ 「慶長十四年(1609)十一月 豆州松崎大明神」 ・・・ 伊那下神社(静岡県)
⑧ 「慶長十四年(1609)十一月 豆州宇久須大明神」 ・・・ 宇久須神社(静岡県)
⑨ 「慶長十五年(1610)六月 越後国蒲原郡彌彦大明神」 ・・・ 弥彦神社(新潟県)
⑩ 「慶長十五年(1610)九月 信州川中島更科郡八幡宮」 ・・・ 武水別神社(長野県)
⑪ 慶長十五年(1610)不明 ・・・ 大國魂神社(東京都)現存せず(*4)
(*4) 『新編武蔵風土記稿』 「六所社」の項に「慶長十五年旧宮社及楼門鳥居諸末社以下倉庫等二至ルマデ造営ヲ加ヘラルコノ時大久保石見守長安奉行セリ。カノ石見守奉納ノ銅灯籠今ニ存セリ」の記載あり。
すべて慶長十年以降、つまり長安が八王子から駿府に拠点を移し、家康の側近として全国レベルの事業を手掛けるようになってからのものです。そしてこれらは一見、代官頭や鉱山奉行、付家老など、長安の徳川家におけるその時その時の役割に付随したもののように見えますが、少し詳しく調べてみると、御岳山同様、時期や奉納先が微妙にズレているのです。まさか大久保長安ほどの人物が発注時期をミスったとは到底考えられません。となれば意図的に時期をズラしたものと解釈するのが妥当です。
では長安の釣灯籠奉納の真意とは何だったのでしょうか?
それは彼の出自に密接に関わるものでした。
§8 大久保長安と釣灯籠の謎(つづく)