武州御嶽840年目の真実 §8 大久保長安と釣灯籠の謎(その2)
2025/12/20(土)
§8 大久保長安と釣灯籠の謎(その2)
【画像1】 江戸幕府の主要鉱山と大久保長安の釣灯籠奉納先寺社分布図
【 大久保長安の出自 】
関東の地方(じかた)開発に加え、鉱山開発、街道整備など、徳川幕府が全国政権となるための内政基盤の確立に多大な功績を残した大久保長安ですが、その卓越した経営手腕は、徳川家に仕える前の、甲斐武田家家臣時代に培われたものでした。しかし彼および彼の家は、武田家譜代ではなく、そもそも武士の家系でもありませんでした。
大久保長安は元々、奈良の春日大社や興福寺に奉仕する猿楽衆、大和猿楽四座のひとつ、金春座(こんぱるざ)の分家のひとつの大蔵家の出身でした。そして「金春」が屋号、「大蔵」が名字とすれば、本姓は秦氏(はたし/はたうじ)です。金春宗家に伝わる系図には、彼の名前は「大蔵太夫藤十郎 秦長安」と記されています【画像2】。彼の父親が武田家お抱えの猿楽師として甲斐国に招かれた際、長安は武田信玄にその資質を見込まれ武士に取り立てられました。ただし、兵士ではなく蔵前衆という鉱山開発や治水および税務など内政を司る組織の一員としてでした。そして武田家滅亡後は、内政手腕を見込まれて徳川家康の家臣となりました。長安自身は芸能の道を離れ、実務官僚としてのキャリアを築いていったわけですが、猿楽師として己の血筋を決して忘れることなく、その後も猿楽衆とは深い関係、否、むしろ積極的に猿楽の普及に尽力していました。
【画像2】 大蔵大夫家系図
『論集 代官頭大久保長安の研究』 村上直 2013 揺籃社 より
というわけで、猿楽師の大久保長安(元の名を大蔵藤十郎長安)という視点で、あらためて釣灯籠の奉納先について調べてみますと非常に興味深いことが分かります。なお、春日大社については別の機会に説明します。
【 猿楽師長安と釣灯籠奉納先の関係 】
鑁阿寺(ばんなじ、栃木県足利市、本尊:大日如来)は、室町幕府の将軍を輩出した武家の名門源氏足利家の氏寺です。戦国時代には幕府権威の失墜と共に衰退し、同寺および住地の足利庄は、鎌倉公方足利家を補佐する関東管領上杉家、その上杉家の家臣の長尾家が管理していました。天正十九年(1591)十一月、徳川家康より寺領60石が寄進されましたが、隣接する足利学校が100石、また、徳川家発祥の地とされた世良田長楽寺100石と比較しますと、見劣り感は否めません。源氏将軍を標榜する徳川家が、にわかに新田氏一族を主張する根拠として長楽寺を優遇したのに対して、まぎれもない先の将軍家の氏寺は大して重要視しなかったわけです。
しかし長安にとって足利家は、父祖の家業である猿楽がこんにち、高尚な芸術として隆盛を極めるきっかけとなった最大の庇護者であり、大恩ある一族ゆかりの寺は、決して無碍にできない存在であったに違いありません。長安が釣灯籠を奉納したのは寺領寄進から6年も後のことです。
戸隠神社(長野県、祭神:天手力雄命、たぢからおのみこと)は、天の岩戸神話ゆかりの地で、境内社に天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀る火之御子社があります。天鈿女命は、天の岩戸神話で八百万の神々前で踊りを披露した芸能の神様です。猿楽(さるがく*1)の大成者世阿弥(ぜあみ、本名秦元清)は、天鈿女命の踊りを猿楽の起源説のひとつとして挙げています。世阿弥の娘婿の金春禅竹(こんぱるぜんちく)の系譜をひく長安にとって、世阿弥ゆかりの地は自身の役目を度外視しても尊重すべきものだったと考えられます。長安は、慶長九年(1604)七月に神領200石を寄進しましたが、これは前年の二月、信州川中島藩14万石の藩主となった家康六男松平忠輝の後見役を命じられた際に、新藩主の名代として行ったものですが、釣灯籠を奉納したのは神領寄進から1年以上も経った後のことです。
(*1) 一般的な「能(能楽)」という呼称は明治時代になってからのものです。
高津柿本神社(島根県益田市、祭神:柿本人麻呂)は、石見国に鎮座する古社です。万葉の歌聖(人麻呂の異名)はこの地で没したとされています。そして、大森銀山は、長安が鉱山奉行として初めて手掛けたものです。石見国に下向した長安は、銀山経営に不可欠な社会インフラを整備するにあたり、先ず同国の生産力を把握するための検地を実施しました。神社のある美濃郡(現在の益田市)は最西部、銀山からおよそ70キロに位置し、検地は慶長七年(1602)に実施されています。そして、長安が同社の社殿を再建し釣灯籠を奉納したのは検地から6年後の慶長十三年(1608)でした。かつて神社を管理していた人丸寺(人丸は人麻呂と同じ)は当時無住でしたので、再建は事実上の再興であったと言えます。この時期外れの大きな再建事業が、新任奉行による地元の由緒ある神社に対する一般的な配慮とするにはいささか無理があると思います。
柿本氏は、渡来系古代豪族の和珥(わに)氏の一族で、和珥氏は春日大社が創建される以前に、神社のある奈良県北部一帯(添上郡・添下郡)を本拠としていました。また、長安がかつて拠点としていた八王子周辺は、和珥氏の一族の小野氏が奉斎する武蔵国一宮の小野神社(府中市・多摩市)があり、この地域を地盤としていた武士団横山党も小野氏の末裔です。人麻呂は挽歌も多く詠み、一説には彼自身も非業の死を遂げたとされています。一般に、古代・中世において、実在の人物が祀られる神社はその怨霊化対策であること、猿楽、特に世阿弥が完成した「夢幻能(むげんのう)」は鎮魂の要素が濃いことを踏まえますと、そこには同郷の人麻呂に対する長安の深い慰霊の念が込められていたことは想像に難くありません。
その一方で、銀山を経営する大森代官所の隣りにある城上神社(きがみじんじゃ、祭神:大物主命)には、長安は着任早々の慶長七年(1602)に神領60石を寄進しました。さらに同社には彼が奉納したという能面3面【画像3】が伝わっています。能面には、次に説明する「翁」で使用する白色尉(はくきじょう)と黒色尉(こくしきじょう)が含まれています。同社は大森の氏社ですので、これらが銀山経営の成功を祈願するものであったことは明らかです。しかし、同社には釣灯籠は伝わっていません。釣灯籠は散逸し、面だけが残ったとは考えられません。
【画像3】 長安寄進能面 大田市城上神社蔵
伊那上神社(静岡県松崎町、祭神:事代主命、ことしろぬしのみこと、「上宮」の異名あり)および伊那下神社(同左、祭神:彦火火出見尊、ひこほほでみのみこと、「下宮」の異名あり)は、いずれも西伊豆にあります【画像4】。長安は、石見や佐渡の実績を買われて、慶長十一年(1606)に伊豆の代官および鉱山奉行に任じられましたが、皮肉にもその頃をピークに伊豆の産金量が減少し始めました。このような状況で、上宮には慶長十三年(1608)、下宮にはその翌年にそれぞれ釣灯籠を奉納したわけですが、上宮には、長安が金の産出を願って、釣灯籠とともに得意の舞「翁」を奉納したという言い伝えがあります。「翁」は、猿楽の源流とも言われ、他の演目とは一線を画した、非常に呪術性の高い演目です。また下宮には、伊豆半島東岸の縄地金山の減産に憂いた長安が、反対側の西岸にある牛原山にかつて鉱脈があったことを聞きつけて、麓にある同社に金山の復活を祈ったという言い伝えがあります。万難を排し、何としてでも産金量を回復したいという長安の強い願望がうかがえます。
【画像4】 伊豆半島の長安ゆかりの神社と金山
さしもの能吏の長安も、金銀の採掘量の減少に苦慮し、あらゆる手管を駆使する必死さが伝わってきますが、少し掘り下げてみますとさらに興味深いことが分かります。
伊那上神社と伊那下神社は、『延喜式神名帳』に記載された、伊豆国那賀郡に鎮座する由緒ある古社で、釣灯籠の銘文にそれぞれ「那賀神社」「松崎大明神」とあるように、上宮が住地の郡名(那賀郡)を、下宮が村名(松崎村)を名乗っていることから西伊豆の中心的神社であったと言えます。そして、両社が冠する「伊那」は、古代の木工専門集団である猪名部(いなべ)を表すと言われます。猪名部一族は新羅系渡来人で、『日本書紀』に、その先祖は新羅王が応神天皇(八幡神のこと)に献上した腕のいい船大工であると語られ、律令時代には、宮都造営や治水灌漑など建築土木を司る秦氏の配下にあったそうです。つまり、両社は、西伊豆に土着した猪名部氏が建立奉斎する神社で、長安は、切羽詰まった状況で、わずかな手掛かりを頼りに、秦氏の末裔として遠祖のよしみに藁をもすがる思いで、地元の有力者に新たな鉱脈発見の助力を求めたものと考えられます。
宇久須神社(うぐすじんじゃ*2、静岡県西伊豆町、祭神:事代主命、ことしろぬしのみこと)も、『延喜式神名帳』に記載された古社ですが、奉納のいきさつや逸話は伝えられていません。しかし、地元では「宇久須大明神三嶋大明神」と称されていたこと、伊豆国一宮の三嶋大社(三島市)の祭神事代主神は幕末に提唱されたものであり、近年の研究では「三嶋」は本来「御島」、つまり伊豆半島そのものという説が有力視されていることなどから、長安は、宇久須神社を西伊豆の総鎮守とみなしたのかもしれません。
(*2) 「うぐす」とは、何とも聞き馴れない地名で、その語源に興味がわきます。ちなみに、宇久須は日本で最大の明礬石鉱床。明礬(みょうばん)は古代ペルシアでは皮なめしに使用され、長安の先祖の秦氏は一説にはペルシア人ともゆかりの深い・・・。
彌彦神社(新潟県弥彦村、越後国一宮、祭神:天香山命、あまのかぐやまのみこと)の御神体である弥彦山は、佐渡金銀の輸送ルート(御金荷の道)を北から見守る場所に位置し、山頂からは佐渡島が間近に望めます。長安が佐渡奉行に就任した慶長八年(1603)当時、越後国は100万石の大大名上杉家が去り、豊臣方の堀家を中心に中小規模の大名が分割統治していました。佐渡で産出された金銀は、越後国の出雲崎および寺泊で荷揚げされ、主に直江津から北国街道を経由して中山道を通り、江戸に運ばれました。佐渡島は徳川家が直轄していましたが、輸送ルートは依然外様大名の勢力下にあったわけです。慶長十五年(1610)二月、越後福嶋藩45万石(上越市)の堀家がお家騒動で改易となり、新たな藩主として家康六男の松平忠輝が信州川中島藩(海津城)から75万石で入部しました。長安は、藩主交代間もない同年六月に釣灯籠を奉納しています。しかし、藩主松平忠輝が神領500石を寄進したのは、翌年の慶長十六年(1611)九月でした。
武水別神社(長野県千曲市、祭神:武水別大神、たけみずわけおおかみ)は、社伝では、善光寺平の豊穣と千曲川の氾濫防止を祈って祀られたとされています。『延喜式神名帳』の名神大社に列せされた由緒ある古社(論社あり)で、神社のある地域一帯が、平安時代末期に京都の石清水八幡宮の荘園となった関係で八幡神を相殿神として勧請して以来、周辺の武家の崇敬を集め、あの木曽義仲も戦勝祈願したと伝わります。長安の釣灯籠の銘には慶長十五年(1610)九月とあります。神社は川中島藩の領域にありましたが、上記の通り、同年二月に藩主の松平忠輝は加増されて、本拠を海津城から越後国の福嶋城に移してしまった(海津城は城代が管理)ので、表向きは人心の動揺を安んずるための奉納と思われます。藩主松平忠輝が統治する川中島藩と越後福嶋藩(総称して後の越後高田藩)は、最大の外様大名の加賀前田家の東側の抑えだけでなく、上記の通り、佐渡の金銀の輸送ルートであり、徳川家および江戸幕府の存立上極めて重要な戦略的要地でした。
しかし、秦氏の末裔で猿楽師の長安の目には別の風景が見えていたと思われます。それは銘文に「更科郡八幡宮」と謳ったことがそれを良く表しています。八幡神は源氏の氏神として鶴岡八幡宮や勧請元の京都石清水八幡宮がつとに有名ですが、その大元は、九州の八幡(やはた)の宇佐八幡宮です。古代、その宇佐八幡宮を創建したのは秦氏です。また能の“修羅物”は武将がシテ(主役)になるジャンルで、死して修羅道に落ち、もがき苦しむさまが描かれます。その題材の多くは『平家物語』から取られ、木曽義仲主従の演目も複数あります。中でも『兼平(かねひら、作者世阿弥)』は、現行能のすべての流派が演じるほど超有名で、主人公の今井兼平の居館は一説にこの川中島今井にあったとされています。また神社の南には『姨捨(おばすて、作者世阿弥)』の舞台とされる冠着(かむりき)山があります。
さて、長々と書き連ねて参りましたが、こうしてみますと、やはり釣灯籠は長安の個人的に思い入れの深い理由での奉納であったことが伺われます。
はたしてこれらの寺社の中に御岳山の釣灯籠奉納の謎を解き明かす手掛かりはあったのでしょうか?
お気付きかもしれませんが、長安のルーツ、すなわち猿楽師さらには遠祖秦氏につながるエピソードがないものがありました。
それこそ、長安と武州御嶽をつなぐ同じ要素を持っているのです。
§8 大久保長安と釣灯籠の謎(つづく)