武州御嶽840年目の真実 §8 大久保長安と釣灯籠の謎(その3)
2025/12/28(日)
§8 大久保長安と釣灯籠の謎(その3)
「ウルトラアイは僕の命だ!」―ウルトラセブン(円谷プロ)より
【 武蔵御嶽神社の太々神楽と神楽面 】
武蔵御嶽神社に大久保長安の時代あるいはそれ以前に、猿楽が奉納されたという記録や言い伝えはありません。また、猿楽につながるもの、つまり祭神や社伝に猿楽の演目の題材になった人物は“表向き”ありません。したがって、一見、同社と長安を猿楽という視点で直接結びつける要素は何もないように見受けられます。しかし、神社で現在執行されている太々神楽(だいだいかぐら)について調べますと、ある興味深いことが見えてきます。
武蔵御嶽神社の太々神楽は、最も格式の高い参拝方法として、江戸から明治時代に盛んに奏上され、現在、東京都無形民俗文化財に指定されています。面をつけない「素面神楽(すめんかぐら)」と「面神楽」の二種類から成り、素面神楽については神社に寛延二年(1749)記銘の伝書『神吉田流御神楽記』等があり、「面神楽」は安永九年(1780)に江戸隅田川西岸の真崎稲荷神社(まっさきいなりじんじゃ、真先稲荷とも)から伝承されました。伝承のいきさつに関する資料はありませんが、この頃、御岳山の宮司家は隣接する石浜神社(橋場明神)から養子を迎えていることから、隅田川西岸地域と何らかの交流があったものと推察されます。
【画像2】 石浜神明宮(橋場明神)と真先稲荷社の境内の様子 『江戸名所図会』より
『神吉田流御神楽記』にある吉田流神楽の母体である京都の吉田神社は、祭神の四柱を「春日神」と総称している通り、その由緒は、平安時代に奈良の春日大社四座の神を勧請したことに始まります。なお、吉田流神楽を受け継ぐ大阪の笠井神楽は、明治以来石清水八幡宮に神楽を奉納することを伝統としているそうです。
一方で、真崎稲荷神社の祭神は、現在は豊受姫神(とようけひめのかみ、伊勢の外宮のご祭神)ですが、『江戸名所図会』には、伏見稲荷大社をはじめ多くの稲荷神社同様、「倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」と紹介されています。
吉田神社、春日大社、石清水八幡宮、稲荷神社は皆、古代の渡来系氏族「秦氏(はたし)」を共通項にして長安と大和猿楽金春流につながります。
ところで前回、戸隠神社の説明で、「世阿弥の娘婿の金春禅竹の系譜をひく長安」としましたが、実は、秦氏を視点にしますと、「世阿弥の娘を娶った金春禅竹の系譜をひく長安」とする方が正確です。秦氏の子孫は金春禅竹の方であり、世阿弥を輩出した観世流を含めて他の大和猿楽三座は秦氏の出身ではないからです。
また、上記の通り、武蔵御嶽神社は太々神楽の起源を、江戸時代後期の18世紀後半(長安没後およそ130年)としていますが、神社には古い面も伝わっています。神楽面といえば、おかめやひょっとこ、動物(猿や狐、魚もあり)など比較的滑稽で表情豊かなものが思い浮かびますが、武蔵御嶽神社の古面には能面と思しきものが含まれています。さらになぜか、江戸初期の年号が記されたものがあるそうです。神社発行の宝物集には、「真先稲荷より伝えられた際、すでに使われていた面も伝わった事がうかがえる」とさらっと書かれていますが、能面にせよ神楽面にせよ、装着することによって演じる役柄に変身する重要なツール(要するに変身アイテム)です(*1)。そのように大切な、しかも100年以上も昔の貴重な品を授受するような大事が記録として伝わっていないのは不自然です。もしこれが事実ならば、もらう方も大概ですが、あげる方もあげる方です(*2)。
したがって私は、江戸初期の面は、他の重要宝器と同様に当初から御岳山にあったものと推察します。
(*1) 「翁」は、演者が面を装着する場面も見どころとして舞台上で行われます。
(*2) 面が奉納品であれば、神様から取り上げて別の神様に中古品を捧げることになりますので、常識的にあり得ません。両社の神様と奉納者に失礼です。そうしますと、真崎稲荷神社は江戸時代から神職が自前で神楽を執行していたことになり、これはこれで興味をそそります。
【 甲斐金櫻神社の奉納面 】
甲斐国(現在の山梨県)の御岳町に鎮座する金櫻神社には、武田勝頼が奉納したと伝わる8つの能面や小鼓の胴が伝わっています(非公開)。神社は、昇仙峡を登り詰めた先にある金峰山(甲斐の御嶽)の里宮にあたり、戦国時代に御岳衆として武田家家臣団に組み入れられていました。武田家滅亡の際に社殿を焼失しましたが、徳川家康によって再建、神領が安堵されました。その際、御岳衆が保管していた武田家の遺品をあらためて神社に奉納したと考えられています。
武田家には、御能館が設けられ、式楽(式典で上演される芸能)に高められるほど猿楽愛好の家風があり、盛んに上演されました。前述の通り、そのような中で長安の父大蔵大夫が招かれました。そして信玄の大僧正任官(よく知られた「信玄」はこの時授けられた法号)の祝賀会でも猿楽を披露しました。
これら8つの能面は、大蔵大夫指導の下で使用されていたものと言われています。そして、その中に「イセキ◇」の刻印を持つものが2面、「出目重満」の銘があるものが1面あります。「イセキ◇」は、近江国の面打(めんうち、面の制作者)井関家を、「出目重満」は越前国の面打出目家(でめけ)を表します。
大蔵大夫の息子の長安ならば、これらの能面の存在は当然知悉していたでしょう。そして、これまで見てきた通り、自身も猿楽を舞い、城上神社に面を奉納した経験があれば、甲斐の御嶽に対する武蔵の御嶽(以下、甲斐の御嶽と区別するために「武州御嶽」と書きます)に猿楽を奏上し面を奉納しても何ら不思議ではありません。ただ、これだけでは単に“あり得る”という話でしかなく、長安と武州御嶽を個人的に結びつけるもの、つまり、長安が猿楽師として釣灯籠を奉納する動機となる何かが必要です。
【 永正八年の社殿修復 】
最初に述べた通り、武州御嶽では、慶長十年(1605)、徳川家康の命令で、二代将軍秀忠を大檀那とし、大久保長安を総普請奉行として大規模な社殿の修復事業が敢行されたわけですが、そのおよそ100年前の永正八年(1511)にも、地元の国衆三田氏宗(みたうじむね)を大檀那として社殿の修復がなされました。神社にはその時の棟札が残っています【画像3】。
【画像3】 武蔵御嶽神社旧本殿永正八年の棟札(『増補改訂青梅市史 上巻』1995より)
今回のテーマで注目したいポイントは、表面中央下段の表記です。
❗ 「右筆越前平泉寺住侶貞祝威徳房」
この棟札は、越前平泉寺の貞祝威徳房が書きましたよ、という意味(だと思います)。棟札一枚書くのにわざわざ外部から僧侶を招いているのです。越前国の平泉寺という日本有数の大寺院から僧侶を招くとは、当時の武州御嶽の権威が相当高かったことを物語ります。ではなぜ平泉寺だったのでしょうか。単に権威を高めたいのであれば、金剛蔵王権現を“表向き”主尊とする武州御嶽とすれば本山の奈良吉野の金峯山寺(通称吉野山)から然るべき僧侶を招くのが筋だと思われます。しかも、変転著しい戦国時代にあっても、吉野山は他山と熾烈に抗争するほど寺勢旺盛でした。軍資金調達のためにも、地方の系列寺社からの依頼(当然に莫大な手数料を徴収)は願ったり叶ったりであったはずです。また、大檀那の三田氏宗にも、間接的ではありますが吉野山にコネクションがありました。当時、朝廷の実力者の権大納言三条西実隆と交流があり、実隆は吉野山の勧進に関与したり、自身も参詣したこともあり、実隆を通じて揮毫を依頼することに支障はありません。それにも関わらず、あえて平泉寺とした理由は何だったのでしょうか。
その最もシンプルな答えは、
❗ 祀られている存在が喜ぶから
だと思います。
そして、この永正の修復時の棟札の存在は、総普請奉行の長安も当然認識していたはずです。長安がその内容に触れた時、その邂逅に感慨もひとしおだったことでしょう。なぜなら平泉寺は大和猿楽師、特に金春流にとって因縁浅からぬ存在であったからです。
【 金春座と平泉寺との浅からぬ関係 】
東京国立博物館には、金春宗家伝来の能面が47面所蔵されています(「金春宗家伝来能面」として2009年に一括して重要文化財指定)。それらのいくつかには作者の刻印があります。「三光尉(さんこうじょう)」の三光坊、「若曲見(わかしゃくみ)」の財蓮、刻印はありませんが「翁」は福来作と伝わるなど、彼らはいずれも15世紀後半に活躍した面打ですが、皆平泉寺の僧侶です。また、上述の甲斐金櫻神社の井関家も出目家も三光坊の弟子です。このように平泉寺および越前国には、猿楽文化を育む風土がありました。
越前国(福井県)における猿楽は、鎌倉時代末期から室町時代初期には、すでに「越前猿楽」と称されるほどその活動は活発で、平泉寺などの国内各地の寺社の法会や祭礼の際に、天下泰平、五穀豊穣の舞を奉納していました。平泉寺は、白山信仰の三馬場(さんばんば*3)のひとつですが、この白山信仰が越前猿楽の成長に大きく影響したと言われています。さらに、越前国の守護(国内を統治する幕府の役職)の斯波氏や朝倉氏による保護育成がありました。そして、京都で応仁の乱(1467~1477)が勃発すると、朝倉氏は、荒廃した京から避難して来た多くの公家や高僧、文人、学者たちを受け入れ、本拠地の一乗谷は飛躍的に発展し「北ノ京」とも呼ばれました。同様に安定的な興行が不可能になった大和猿楽の諸座も、地方の有力大名を頼って都を離れ、この越前国にもやって来ました。すでにこの頃将軍の上覧に供するほど成熟していた越前猿楽でしたが、かれらと積極的に交流し、更なる芸の向上に勤しみました。越前に下った大和猿楽四座の中でも特に金春座とは親密で、59世の禅鳳元安(1454~1532?)は、当時の朝倉氏当主の猿楽の鑑賞眼の高さに感嘆したり、62世の禅曲安照(1549~1621)は、一時期越前の猿楽大夫の養子になるなどのエピソードが伝えられています。
(*3) 馬場(ばんば)は、白山山頂を目指す登拝道(禅定道という)の起点。加賀国の白山本宮(現、白山比咩神社)、越前国の霊応山平泉寺(現、平泉寺白山神社)、美濃国の白山中宮長滝寺(現、長滝白山神社)の3つ。多くの宿坊が出来、修行の拠点でもありました。
ではなぜ、大和猿楽四座の中でも金春座と越前国との結びつきが強いのかと言いますと、そもそも越前国は、古代より秦氏の人々が非常に多く居住し、奈良時代頃までは山城国(京都)に進出した秦氏(宗家の太秦氏など)とも密接な連携があったされています。そして、秦氏およびその子孫である金春流猿楽師が奉斎する「宿神(しゅくしん)」が、太古より死と再生を司る霊山として崇められた白山に鎮座する白山比咩神(しらやまひめのかみ*4)と同一視され、越前国出身でこれまた秦氏の子孫とされる泰澄(たいちょう、682~767)がその信仰拠点として平泉寺を建立したのです。ですから、金春座の越前行きは、古代からの京都越前間における秦氏の頻繁な往来と白山信仰の延長線上にあったとみるべきでしょう。
長安の釣灯籠奉納が、自身のルーツ、すなわち金春流猿楽師ひいては遠祖の渡来人秦氏を意識してのものであったとしますと、奉納月に「十一月」が多いのも気になります。それは、平泉寺が奉斎する白山の神、白山比咩神の本地仏は十一面観音だからです(*5)。
(*4) 伊弉冉命(いざなみのみこと)あるいは菊理媛神(くくりひめのかみ)と同一とされます。伊弉冉命は死して冥界(黄泉の国)の主宰神となりました。菊理媛神はイザナギ・イザナミ神話で、黄泉平坂(よもつひらさか)でこの世とあの世を分け隔てた(=葬礼を司った)神として登場します。
(*5) ちなみに、長安が陣屋を置いた八王子の由来である八王子権現は、近江国(滋賀県)の八王子山が元ですが、この八王子山はきれいな円錐形で、日吉大社の起源は、この八王子山をご神体として崇めたことに始まると考えられています。白山比咩大神は、この八王子山の麓に日吉大社客人宮(まろうどぐう)として祀られています(上七社のひとつ―いわゆる“神7”のひとり、違うか💦)。
しかしながら、これだけですと、金春流猿楽師長安の遠祖秦氏につながるエピソードをもたない武州御嶽に釣灯籠がある説明がつきません。ところが、前回紹介した長安が釣灯籠を奉納した寺社の中に、同様に金春流猿楽師および秦氏にかかわるエピソードが見受けられないものがあります。それは、
❗ 越後国一宮の彌彦神社 です。
越後国は、太古、「越の国/古志の国」という他に越前・越中・加賀・能登を包括した日本海沿岸の超大国の一部でした。奈良時代以前に上記5か国に分割されました。しかし越後国には、秦氏の痕跡は見当たりません。ちなみに隣接する越中国および佐渡国には若干あります。また、江戸幕府の戦略的要地としては、長安の釣灯籠奉納年の慶長十五年(1610)にはすでに越後国は完全に徳川家の支配下にあり、「御金荷の道」を北(背後)から攻撃される地政学的リスクは解消されていました。
【 彌彦神社と武州御嶽に共通する人物 】
長安は、大和猿楽一座の子弟として生まれながら武士に取り立てられ、今や朝廷や寺社までも支配下に置く、武家の棟梁徳川幕府の一翼を担う存在にまで上り詰めたわけですが、かつては武士階級も公家や寺社の番犬扱いされた時代が永らくありました。その間、武士どうしでも血生臭い権力闘争が繰り返され、幾千幾万のもののふたちがその餌食として無念に死んでいきました。そんな彼らに思いを馳せた時、長安の心の中に、かつて自分の先祖たちが歩いた奈良および京都から越前を通り弥彦山に至る日本海沿岸を、失意の内に歩いたひとりの武将が抱かれたに違いありません。
なぜなら、その人物は鎮魂の芸能とも言われる猿楽の題材に数多く取り上げられ、生前には春日大社と浅からぬ縁があり、越前から越後にかけての沿岸には彼ゆかりの地名が数多く残り、そして彌彦神社には、彼が参拝した際に奉納したとされる「御陣扇」が伝わっているからです。
彼は、北方への逃避行の最中、京都からの追っ手を懸念する家来の反対を押し切ってまで平泉寺に参拝しました。当初苦労もありましたが、一行は同寺の長老から心尽くしのもてなしを受けています。
その武将こそ、武州御嶽の本来の御祭神だと、私は思っています。
§8 大久保長安と釣灯籠の謎(おわり)