武州御嶽840年目の真実 §9 御岳山は武蔵国の「御嶽」だったのか?

2026/1/12(月)

§9 御岳山は武蔵国の「御嶽」だったのか?


君にも見えるウルトラの星~♬ (『帰ってきたウルトラマン』より 円谷プロ 1972)


【 蔵王権現垂迹の地 】

東京都青梅市、武蔵御嶽神社が鎮座する御岳山は、社伝によれば、鎌倉時代に朝廷から派遣された大中臣国兼(おおなかとみのくにかね)によって中興されて以来、蔵王権現を主尊とする御嶽信仰(または金峰山信仰)の、関東における一大霊地として多くの崇敬を集めてきました。蔵王権現とは、正式には金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)といい、飛鳥時代の呪術師役小角(えんのおづぬ)が奈良金峯山の山上ヶ岳で衆生を救済するために一心に祈念した際に顕現した修験者の守護神です。

「金峯山(きんぷせん)」は、奈良県南部にそびえる大峰山脈のうち吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称で、修験道の聖地です。奈良の都(平城京や藤原京)の南に位置するこの山塊は、古来、水源や鉱物資源の産地であることから富の源泉地、この世の理想郷とみなされ、いつしか「金の御嶽(かねのみたけ)」と称されました。さらに山中他界観、仏教の興隆と末法思想の広まりを受けて、平安遷都後も金峯山浄土として、都の人々に崇められるようになりました。そんな大自然の精霊宿る深山幽谷に登攀(とうはん)し、自らに課した厳しい修行で験力を得た山伏は、加持祈祷によって現世の様々な苦難や障害を取り除くことが出来る修験者と期待され、もてはやされました。彼らは互いにその力を競い合い、より強力な験力を得るために、更なる秘境に修行の場を求めて、地方の霊山に散って行きました。

こうして彼らは訪れた先々で、国ごとに定められたという霊山、いわゆる「国の御嶽(くにのみたけ)」に果敢に入峯して行ったのです。


【 国の御嶽 】

「国の御嶽」は、公式に設定されたものかは不明です。「御嶽(みたけ)」およびこれに類する名称の山は、日本中に存在するものの、旧令制国全68州すべてを網羅しているわけではなく、その一方で、ひとつの国に複数あるケースもあります。

本来、「御嶽・御岳(みたけ)」とは“お山”、つまり山を丁寧に表現した言葉に過ぎません。ですから、集落や地域の住民側で、生活コミュニティのシンボルとなる山を「御嶽」と呼ぶことも多かったと思われます。では、仏典の難解な教義など理解しない庶民の間で、どんな山が「御嶽」と敬称されたのでしょうか?

それは、太古より集落や地域から見て、大きくて、美しい、あるいは独特の形をした山、要するに理屈抜きに“目立つ山”であったに違いありません。 その見た目から神坐す聖地として畏れ崇められ、地元住民にとって唯一無二の存在であるからこそ、他と区別するための固有名詞など必要のない“お山”で通じるわけです。その後稲作が普及すると、“お山”は水源地とみなされ、水を共有する集落や地域における共通の信仰対象として崇敬されたものと思われます。

では、本題ですが、次の画像を見て、御岳山(武州御嶽)がどれか分かりますか?

【画像1】 狭山湖からみた御岳山と奥多摩の峰々


武州御嶽とは、その名の通り、武蔵国の御嶽という意味です。しかし、

平野部から見て、どこにあるのか、その形すらよく分からない山が、「国の御嶽」どころか、地域の「御嶽」にすらなるとは思えません。

君にも見えない御岳山をどうやって崇めろというのでしょう。

比較として、甲州御嶽、信州御嶽および『御嶽信仰』(宮家準編 民衆宗教史叢書 雄山閣 1985)に紹介されている「金峯山・御岳山表」からweb上で山の姿の画像が拾えたものを下に示します。


【 かつて御岳山は“三岳”だった?! 】

旧書によれば、かつて御岳山を前岳、奥の院を中岳、そして大岳山の三山一体で御岳(三岳)であった、と言われています。前回のテーマの大久保長安が奉納した釣灯籠銘にある「武州三竹」の表記もそれを暗示しています。大岳山(標高1,266m)は、奥の院(1,077m)や御岳山(929m)よりも高く、何よりもその特徴的な山容から武蔵国の平野部からはもちろん海上からも同定しやすく、江戸時代には江戸湾を出入りする船の目印にもなっていたそうです【画像2】

【画像2】 武州の三岳


これならば武蔵国の御嶽と呼ぶにふさわしいと思います。

ところが不思議なことに、大岳山は、戦国時代末期(16世紀末)に、すでに御岳山(奥の院を含む)とは別個の存在となっていたものと思われます。文政十三年(1830)に完成した、江戸幕府直属の学問所編さんの『新編武蔵風土記稿』では、大岳山について、「この山往古は御岳山の奥院たりしに、天正年中(1573~1592)社領の御朱印を付せられしとき、両社に分け賜ひしにより各一社をなせりと、もっとも覚束なき説なり」―この山(大岳山)はその昔は御岳山の奥院だったが、天正年間に家康公から神領を寄進された際に二社に分けられたと言うが、全く信用できない―とあり、大岳山と御岳山はもっと昔に切り離された、あるいは最初から別々の存在だったと、江戸時代末期の学者には認識されていたのです。

結局、いつ頃切り離されたのか(いつ頃まで一体であったのか)は不明ですが、御岳山に伝わる縁起のひとつで、前述の大中臣国兼が建長八年(1256)に著した、『南瞻部州(なんせんぶしゅう)大日本国東海道武蔵国奥院御嶽縁起事』(通称『建長八年縁起』)の表題中の「奥院」と、文中「所謂大嶺の方に当たり、弐螺若鐘五音六声を毎晡聞く」―大嶺の方から法螺貝や鐘の音、お経の読誦が毎夕聞こえた―の「大嶺」を大岳山とみなせば、鎌倉時代の半ば(13世紀中葉)は大岳山と御岳山が一体であったと考えられます。

ではなぜ、平地からは場所も形も分からない御岳山が、大岳山を切り離しても、あるいは武甲山(かつては1,336m、古称は「嶽」または「嶽山」)を差し置いて、その後も“武州御嶽”たり得たのでしょうか?

そこには何らかの人為的な政治力学が働いていたものとしか考えられません。

また逆に、大岳山と一体とした場合、どんなことが見えてくるでしょうか。

それは、単に奈良金峯山の本尊蔵王権現を勧請したというものではなく、御岳山から大岳山にかけての山域は、金峯山そのものを再現したものだったということが分かります。


【 御岳山と金峯山を比較 】

細かい説明は省きますが、まず多摩川を起点とする御岳山、奥の院(甲籠山)、大岳山の三山【画像3】が、奈良金峯山の、吉野川を起点とする吉野山(下千本・中千本・上千本の地域)、青根ヶ峰(奥千本)、山上ヶ岳の三山に対応します【画像4】


【画像3】 神仏習合時代の武州御嶽(御岳山・奥の院・大岳山)


【画像4】 奈良金峯山(吉野山・青根ヶ峰・山上ヶ岳)


次に、往昔の御岳山の主要施設は北から順に、


千本桜(富士峰)、宿坊、世尊寺、仁王門、銅鳥居、本社、勝手宮、子守宮、奥の院、大岳神社


が並びます。これに対して、奈良金峯山の主要施設を、江戸時代の絵図『和州芳野山勝景図』 正徳三年刊(1713)をもとに北(麓)から列記しますと、


銅鳥居、仁王門、山下蔵王堂(金峯山寺)、櫻本坊、勝手社、世尊寺、子守社(吉野水分神社)、そして青根ヶ峰の金峯社、さらに山上ヶ岳の山上蔵王堂(大峯山寺)


になります。なお、詳細は国立公文書館のデジタルアーカイブをご参照ください(Bigデータですのでダウンロードする場合はご注意)。

『和州芳野山勝景図』(国立公文書館のデジタルアーカイブ)


若干の配置の違いはありますが、奈良金峯山の三山構成と主要施設、さらには吉野山の代名詞とも言える桜まで網羅しています。ところがよく見ますと、肝心なものが金峯山にあって御岳山に見当たりません。


【 金峯山にあって御岳山にないもの 】

御岳山(武州御嶽)は、徳川家康の関東入部以来、江戸城鎮護の祈祷所の役目を担い、後に寺社奉行直支配の高い格式をもって幕府に処遇され、五代将軍綱吉の時代までは、社殿の修復は幕府直営で行われていました。しかしながら、その後幕府は財政難に陥り、各寺社は修復や再建の費用を自前で工面しなければならなくなりました。御岳山では、富くじや出開帳などの開催を幕府に申請しましたが、その際、由緒のある霊山であることを幕府や世間にアピールするために、きちんとした縁起をまとめる必要がありました。

すでに1000年以上続く我が国の神仏習合時代の中で、権威ある有名な山岳寺院には大抵、開山の正当性を示す地主神の存在および開祖との邂逅(かいこう)伝説があり、それを以て縁起由緒の書き出しとしていました。金峯山寺の金峯神しかり、高野山金剛峯寺の丹生都比売神しかり、比叡山延暦寺の日吉神、日光山輪王寺の二荒山大神等々。 その中で、武州御嶽が縁起を起草するにあたり、本山の奈良金峯山をモデルにするのは至極当然のことでした。

ところが、奈良金峯山と比較した時、金峯山の三大社である金峯社、勝手社、子守社のうち、肝心の地主神の金峯社にあたるものが、御岳山には存在しないことが分かります。

奈良金峯山の地主神金峯社が鎮座する青根ヶ峰に相当する御岳山の奥の院には現在、男具那社(おぐなしゃ)がありますが、祭神の日本武尊は当然ながら地主神ではありません。そこで、ちょうどその頃、御岳山に訪れるようになった神道家の斎藤義彦の助言で、『延喜式神名帳』の多摩郡八座の中で、所在のはっきりしていない大麻止乃豆乃天神(おおまどのつのあまつかみ)こそ、御岳山の地主神であると主張したのです。

しかしながら、そもそも武州御嶽には、訳あって世間に口外できないご祭神を奉斎する長い歴史がありました。それと大麻止乃豆乃天神の折り合いをどうつけるのか。また一方で、近年、御岳山御師の檀家に評判のいい御神狗、すなわち「おいぬ様」も縁起に盛り込みたい。これらの課題を解決して出来上がった縁起は実に巧妙に叙述されたものでした。下記は、この時作られた『御嶽山社頭来由記』(通称『元和八年縁起』)からの引用です(*1)。


「司職(大中臣)国兼、ここにおいて本迹縁起の神道を極め、仏堂の制を換えて神社の営方に改造り、行基の作の蔵王(権現の)霊像を垂迹とし、坂本なる地主大麻止乃豆ノ天神に神秘一座を加え、三神合一にして御嶽山大権現と称し奉る。」


「垂迹(すいじゃく)」とは、神仏習合思想のひとつで、本来の神仏が実情に合わせて仮の姿で現れることを意味します。つまり、御岳山の主尊である蔵王権現は仮の姿で、大麻止乃豆ノ天神と神秘一座の合体である御嶽山大権現が本来の姿であると述べています。


上記の「訳あって世間に口外できないご祭神」とは、この一文中の“神秘一座”のことであり、

これこそ、武州御嶽の本来の祭神であり、

家康が自身の霊廟を御岳山に造営させることを憚り(*2)、

かつて奥の院に祀られていた大天狗小桜坊の正体であり、

九月の陰祭では逢魔が時に奉納される流鏑馬に興じられ、

戦国時代の社殿修復の落慶に大檀那三田氏が越前平泉寺から僧侶を呼び寄せ、

大久保長安が金春座始祖秦氏の末裔として釣灯籠を奉納した対象なのです。


大麻止乃豆乃天神を前面に押し立てたこのカモフラージュによって、武州御嶽は見事に神秘一座の存在を文字通り神秘のベールに包み込み、世間の耳目をそらしたわけです。


【 三柱の内訳は? 】

しかしながら、ここで不思議なのは、大麻止乃豆乃天神と神秘一座なら二柱です。しかし縁起には“三柱”とあります。また、依然として縁起の書き出し、つまり開山のきっかけ、開祖と地主神との邂逅伝説が存在しない問題が解決されていません。

しかしこれは、誤植でも間違いでもありません。ここで武州御嶽は、ご眷属の大口真神を記紀の日本武尊伝説に融合させて、縁起の書き起こしにするという離れ業をやってのけました。本来開祖と地主神との邂逅説話であるべきところを、大口真神が御岳山の守護神となったエピソードに力技ですり替えたのです。

縁起の冒頭では、「武蔵国杣郡秩父峯御嶽山に鎮座まします御嶽山大権現は、鎮護国家の霊神、万民豊楽の化徳、当今万歳の治平を往古千歳の始めに宣説し給ふ霊妙不思議の神徳なり。その来由の万一を伺い奉れば、・・・」と、あたかも御嶽山大権現の由来が展開されると思いきや、「人皇十二代景行天皇の践祚四十年にあたり、(中略)日本武尊、白狼に告げたまはく、汝本陣に返り至りて火災盗賊を防ぎ守護すべしと、白狼諾するの相をなし喜声をなして御嶽山の方に向て去りぬ。これ火難盗難退除の守護神たる由縁なり」と、「おいぬ様」誕生伝説を延々と書き連ねたのです。この大口真神と日本武尊の邂逅譚は、縁起全体の実に5分の2を占めています。

そして中盤に何事もなかったかのように、上記の大中臣国兼による御嶽山大権現の創設のエピソードが唐突に登場するのです。曰く、「蔵王権現の由来を尋ねれば、人皇四十五代聖武天皇・・・」と(なお、御岳山の縁起については次回のテーマで検討します)(*3)。

結局、三柱の内訳は、登場順に、大口真神、大麻止乃豆乃天神、神秘一座であり、


蔵王権現 ≒ ( 大口真神 + 大麻止乃豆乃天神 + 神秘一座 ) = 御嶽山大権現


という図式になります。


そして、神秘一座の正体はと言いますと、これを知るヒントは、武州御嶽の奥の院に比定される奈良金峯山の青根ヶ峰に今でも存在しています。


(*1) 巻末に元和八年(1622)と記されていますが、実際は上記のいきさつから江戸後期の文化年間(1804~1818)にまとめられたものです。

(*2) 元禄時代の境内図には東照宮は見えますが、江戸初期のそれにはありません。江戸時代に神君家康公の御宮を描き忘れることはあり得ませんので、東照宮は後に造営されたものと考えられます。

(*3) そのあまりの唐突ぶりに、『新編武蔵風土記稿』の編者は、読者の混乱をさけるためか、縁起の引用部分を、「司職国兼、本迹縁起の神道を極め仏道の制を換えて神社の式に改め、行基の作りし蔵王の像を垂迹とし坂本なる地主の大麻止乃豆の天神に神秘一座を加えて二座合一の神社とし御嶽山大権現と号せり」としています。


§9 御岳山は武蔵国の「御嶽」だったのか?(おわり)


次回予定 §10 検証 武州御嶽縁起の謎(仮題)


本論は、ホストの推測を含む個人的な見解です。

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