武州御嶽840年目の真実 §10 検証 武州御嶽縁起の謎(その1)

2026/1/19(月)

§10 検証 武州御嶽縁起の謎(その1)


【画像1】 徳川家康は、「天下は為政者の私物ではなく、万民のためのものである」という言葉を残しましたが、その後の歴代将軍が天下を治める正統性は、権現様(神君家康公)の掟に従うこととされました。


【 武州御嶽伝来の3つの縁起 】

武蔵御嶽神社には現在、おもに3つの縁起が伝わっています。古い順から、

  • 『南瞻部州(なんせんぶしゅう)大日本国東海道武蔵国奥院御嶽縁起事』 建長八年(1256)二月成立
  • 『壬生氏置文(みぶしのおきぶみ)』 正和三年(1314)閏三月成立
  • 『御嶽山社頭来由記』 元和八年(1622)九月成立

これら3つはその年記を取ってそれぞれ上から順に『建長八年縁起』、『正和三年縁起』、『元和八年縁起』と通称されています。

これらの中で、『御嶽山社頭来由記』こと『元和八年縁起』(以下『元和縁起』)は、最も通史的で、現在の武蔵御嶽神社由緒のベースになっています。同神社で「社伝によれば・・・」などと表記されていれば、この縁起のことを指していると考えていいと思います。なお、前回説明した通り、『元和縁起』は、元和八年(1622)の成立としつつも、実はもっと後の文化年間(1804~1818)に作られたものであることが分かっています。

ではなぜそのような作為をしたのでしょうか。それは、徳川八代将軍吉宗が享保の改革を推進する際に発したとされる、「諸事権現様のお定めの通り(何事も神君家康公がお決めになられた通り)」の言葉に象徴される通り、「東照大権現」の名で神格化された江戸幕府初代将軍の徳川家康は、徳川の天下において絶対的な存在であり、彼の治績はその後の執政の先例となっていたからです。すなわち、武州御嶽にとって、江戸時代の初めに家康によって社領が寄進され社殿が再建されたことを縁起の帰結とし、その事実をもって存在の必然性をアピールすることは、社殿修復の資金を江戸ひいては関東の人々に広く募るために最も確実かつ効果的な方法であったと考えられます。加えて「元和八年」という年次は、二代将軍秀忠の最終年にあたり、三代将軍家光の治政で幕藩体制が完成される以前に、武州御嶽の権威が確立していたことを示す狙いもあったのかもしれません。

これら3つの縁起の内容については、武州御嶽の本格的な通史研究の嚆矢、というよりか唯一の専門書である『武州御嶽山史の研究』(斎藤典男 1975 隣人社)に、その全文が掲載されていますので、そちらをご参照ください(*1)。

『武州御岳山史の研究』 国立国会図書館デジタルオンライン

(*1) 閲覧には利用者登録が必要です。なお同書は、平成五年(1993)に増補版が復刊されましたが、いかんせん誤字脱字が多すぎて難読極まりなく、復刊に携わった諸先学のご尽力に敬意を表するものの、再校正されたものが再版されることを望むばかりです。


なお、本稿は、『元和縁起』のコンパクト版といえる、縁起の原文より多くの人々の目に触れたものと思われる『新編武蔵風土記稿』における武州御嶽(文中では「御嶽社」と表記)の記載内容をもとに進めます。本稿の最後に縁起部分の全文を上げておきました。


現在、一般的に、神社の歴史は「由緒」、寺院の歴史は「縁起」といいますが、上記の通り、武州御嶽では「縁起」とするところに、多くの場合と同様にかつては神仏習合の山岳寺院であったことが表れています。ひと口に「神仏習合」と言いましても、その寺社の成立事情や神社と仏寺の力関係によってその形態は様々で、神社の境内に仏寺があって祭神に対して神職と僧侶が共同して奉仕するパターンや、祭神と本尊が両方いて各々に祝詞または読経を上げるパターン、仏寺の境内に神社があって寺僧が読経を上げるパターンなどがありました。

“社伝によれば”、武州御嶽では神主(宮司)社僧(神社に所属する僧侶およびその寺院のこと)がいて、それぞれ役割分担して一山を治めていました。神主は、御岳山の領主的な存在で、本社(現在本殿がある所)の祭祀を専らにして俗事には関わらず、一方で、社僧は、世尊寺(せそんじ)といい、本尊を釈迦如来としつつ、武州御嶽全体の経営実務を担い、さらに拝殿にて不動明王の加持祈祷を日課としていました。


3つの縁起の詳しい論考は、斎藤典男氏の前掲書をご参照いただくとして、本稿では、「武州御嶽840年目の真実」という大命題に則した次の3つのポイントについて検討します。

1.『元和縁起』の内容の信憑性について

2.『正和縁起』に隠された中世の武州御嶽の大変革

3.3つの縁起から読み取れること


【 『元和縁起』の内容の信憑性について 】

これだけで一つの論文、下手をしたら一冊の本が書けるほど壮大なテーマですが、先に結論をいいますと、武州御嶽中興の祖とされる大中臣国兼以降の記述は信憑性が高いと考えられます。その理由のひとつは、御岳山に残る『元和縁起』の唯一の写本(慶応年間)に記されている次の事柄にあります。

その竪帳(*2)の表題に「御嶽山秘録 他見するべからす事」とあり、さらに巻末には朱書きで、「右ノ秘録ハ実ハ文化之頃神主金井大輔郡胤旧説ヲ取撰之候也依而不宜事モ数々有之候事」とあります。『元和縁起』は他見不可の秘録であり、最後に「宜しからざる事も数々これあり候事」と締めくくっているのです。 では、この「宜しからざる事」、つまり武州御嶽にとって不都合な真実とは、具体的に文中のどの部分を指すのでしょうか。それは、

大中臣国兼の動向と九条道家という人物の存在

と私は考えます。

(*2) 竪帳(たてちょう)・・・用紙をたてに二つ折りにし、袋とじにした帳面。検地帳・宗門人別帳・五人組帳・村明細帳などの領主向けの公式帳面は、原則として全てこのかたちをとります。


大中臣国兼が、武州御嶽中興の祖とされる所以は、『元和縁起』と、彼が著した『建長八年縁起』によるものですが、『元和縁起』には、国兼による復興の経緯にとどまらず、一見、武州御嶽には直接関係のないことも記載されています。

まず彼は、武州御嶽に初めて来山する10年以上前に起った、承久の乱(1221)(*3)に、京方(朝廷側)として参加しています。つまり鎌倉幕府に敵対していたのです。『元和縁起』には、この時佐々木広綱という武士と共に順徳天皇(後鳥羽上皇の皇子)の命を受けたとあります。佐々木広綱とは、鎌倉幕府創業以来の有力御家人で、本貫地が近江国であった関係から在京武士、いわゆる京武者として活動していました。承久の乱発生時、広綱は西面の武士という、乱の首謀者である後鳥羽上皇の親衛隊の一員でしたので、立場上京方につきました。

ここで、後鳥羽上皇を乱の“首謀者”とし、その軍勢を“京方”とする表現は、あくまで後世の鎌倉幕府サイドの視点であって、本来は、後鳥羽上皇が鎌倉の執権北条義時追討の院宣を発し、軍勢(官軍)を集めた、というのが正しい認識です。そもそも、鎌倉幕府が公権力たり得るには、その首長(鎌倉殿)が朝廷から征夷大将軍などの官職を与えられていることが前提ですが、承久の乱発生時、鎌倉に将軍は不在で、京都から鎌倉に下向していた次期将軍の九条頼経は元服前で無官、鎌倉殿は亡き頼朝の妻北条政子が代行していました。なお、執権(しっけん)とは、鎌倉幕府の政務統轄者ですが、あくまで鎌倉幕府内部の役職ですので、この時点で鎌倉幕府は武士の私的な労働組合で、北条義時は組合の委員長の立場でしかありません(*4)。しかし、これはごく最近の歴史認識であって、少なくともその後の武家政権の時代では、承久の乱は、後鳥羽上皇の無謀な野心で引き起こされ、その敗北は上皇の不徳と、即位に三種の神器がそろっていなかったことによる不完全な正統性が原因と認識されていました(*5)。

(*3) 三代将軍源実朝が暗殺され、源氏将軍が途絶えて動揺する鎌倉幕府のスキをついて、朝廷権力の回復を目指す後鳥羽上皇が仕掛けた幕府執権北条義時の排斥運動。上皇は院宣を発して在京はじめ全国の武士に動員をかけましたが、情報をいち早くキャッチした幕府側が東国御家人の離反を阻止し、先手を打って大軍を上洛させて官軍に圧勝。後鳥羽上皇を含めた3人の上皇は配流となり、以後幕府が朝廷政治を監督指導する立場となりました。

(*4) 義時自身はこの時、右京権大夫陸奥守という官職にありましたが、両職に幕府の長(軍政長官)たる権限はありません。

(*5) 過ぐる源平合戦(壇ノ浦の戦い)で天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が平家一門と共に海中に没してしまいました。


【画像2】 三種の神器(イメージ、Wikipedia CC-菊竹若狭)

皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま即位した後鳥羽は、終生このことが耐えがたいコンプレックスとなって強権を志向し、承久の乱の遠因になったとする見方もあります。

乱に敗れた国兼は、一旦佐渡国に逃れた後、遠江国に隠れ、その後諸国を遍歴した後に武州御嶽の宮司に任命されたと記されています。しかし宝治元年(1247)、今度は、将軍職を息子に譲って大殿となった前将軍九条頼経の側近で、御家人最大勢力の三浦一族のひとりである三浦光村の武力蜂起(宝治合戦)に加担したらしく、幕府から武州御嶽に軍勢を差し向けられています。大中臣国兼は、武州御嶽の宮司となった後も鎌倉幕府に反抗的であったのです。

したがって、武州御嶽が、源頼朝を信奉し鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』を愛読した徳川家康からのお墨付きによってその権威の裏付けとしている以上、その中興の祖と仰ぐ大中臣国兼のこれらの事績は、「宜しからざる事」以外の何物でもありません。


次に、九条道家ですが、『元和縁起』では、大中臣国兼を武州御嶽の宮司に任命した人物として登場します。曰く、「文暦元年(1234)前摂政道家卿祈念のことありて四条帝へ奏聞して神社仏閣ことごとく故に復し散位大中臣国兼を祭祀の司職と定めらる時に鎌倉将軍頼経より神領として永銭三十六貫文の地を寄附せらる・・・」と。恥ずかしながら私はこの縁起ではじめて彼の名前を知りました。

この九条道家(九条藤原道家*6)、わが国の政治史における最大の実力者と言っても過言ではない人物でした。すなわち、鎌倉時代前期のおよそ10年間に、本人は摂政関白その後太閤(前関白のこと)となり、3人の息子が摂政関白、1人は鎌倉将軍、さらに別の息子は天台座主、そして孫は天皇という、朝廷、幕府、仏教界、そして皇室と、中世権力のすべてを掌握していたのです。そんな超大物が京都や奈良の並み居る大寺社を差し置いて、わざわざ武州御嶽に国兼を宮司として派遣して何事かを祈願したというのです。もしこれが事実なら、その祈願の内容は上記の国兼の行動から察するに、鎌倉幕府にとって「宜しからざる事」であったことは想像に難くありません。しかも文脈から、息子の将軍頼経も一枚嚙んでいた可能性が大いにあります。そして、宮司に任命された大中臣国兼にしても、当時の日本最大の実力者から余程の大事を託されるような人物であるわけですから、道家を絶対に裏切らない股肱の臣であったに違いありません。

事実、『吾妻鏡』では、その後に発生した朝廷と鎌倉幕府を巻き込んだ一連の事件の黒幕が道家であることをほのめかしています。最終的に、五代執権北条時頼によって、前将軍九条頼経が京都に送還され事態の収拾が図られますが、その間京都では、時頼の兄で前執権の北条経時が23歳の若さで死んだのは、道家が呪詛(呪い殺)したためとの風聞が流れていました。ご興味のある方は、「仁治三年の政変」「宮騒動」「宝治合戦」をWikipedia等でご覧ください。

(*6) 九条家・・・いわゆる五摂家のひとつ。摂政関白に任じられる藤原家嫡流の最高の家格


道家をよく知らない人(私もそうでしたが💦)ならば、「昔、武州御嶽を復興した大中臣国兼という人は、朝廷のすごく偉い人から宮司に任命されたのね、すごいじゃん」程度にしか思わないでしょう。しかし、『吾妻鏡』を読み込んでいる人々―おそらく大半は武士、特に幕臣―には、道家は朝廷政治のトップでありながら世の秩序を乱す全くけしからんヤツ、そして、京都とはこれまで200年以上もの間協調路線を維持してきた江戸幕府にとっては、朝幕関係の暗黒歴史の張本人の一人、しかも、外国船の日本近海出現をきっかけに朝幕関係がぎくしゃくし始めた当時の世相を鑑みれば、極めて不吉な人物であったはずです。極めつけは、延宝三年(1675)に出版された『鎌倉北条九代記』という仮名草子(漢字カナ交じりの読み下し歴史書)に、道家が鎌倉幕府に謀反を企てていたこと、最終的に幕府が道家を暗殺したのではないかということがはっきりと書かれていることです。この本は儒教的徳目を基準に執筆され、何度も再版を重ねていますから、寺子屋で武士や町人の子弟に盛んに読まれたものと考えられます。

ですから、九条道家の名を縁起に載せることは、武州御嶽が、鎌倉時代から朝廷の超大物からも崇敬されたことを世間にアピールするメリットよりも、鎌倉幕府に謀反を企てた人物とじっこんであったことを世間にさらすデメリットの方が圧倒的に大きかったはずです。

したがって、檀家や参拝者に見放され、幕府からも目を付けられるリスクを冒してでも2人の事績を盛り込まなければ縁起が成り立たないということはつまり、少なくともこの2人に関しては事実を反映したものであり、そこまでした以上それ以降の記述についても虚構を差し挟むことなはいと考えられるのです。


§10 検証 武州御嶽縁起の謎(つづく)

本論は、ホストの推測を含む個人的な見解です。


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『新編武蔵風土記稿』記載の御嶽社(武州御嶽)の縁起部分

※(西暦)(読み仮名)はホストが追記

人皇十二代景行天皇四十年に日本武尊東夷征伐のため御下向ありしとき、相模国より渡海せられ陸奥を平らげ給ひ、それより常陸をしずめ甲斐国に至り、なお信越の諸国を王化に帰せしめ給はんと上州より当国に来たり給ひてこの御嶽山に陣営をすへられ、服するを陸ひ背けるを誅し給ひて東南の国々みな平均せしかば、再びこの陣営にかへり給ひ、なお西北を志し給ひて山路の険阻を越え今の奥の院高良山の辺りをすぎ給ひしに、深山の邪神大いなる白鹿と化して道路をふさぎける。尊太占(ふとまに)をもって山鬼なることを知り給ひ、山蒜(やまびる)をとりて大鹿の面に弾き給ひしかば、過たず眼にあたりて斃れけるとき山谷鳴動して雲霧四方に起り、群臣路に迷ひしとき、忽然として白狼あらはれ前駆して西北に導きまいらせけり。尊狼に告げ給ひて、これをより本陣にかへり火災盗難を守護すべしとありければ、獣ながらかしこまりし顔色あらはれて御嶽山に向ひて去りしとなり。これ当山の火難盗難退除の守護神たることの由なり。

さて尊は事成らきて再びこの山にかへり給ひ御身につけ給ひし御鎧をとかせられ永く岩倉に納め給ふ。これ当国に名を得しことの由なり。またのたまひしはこの国千歳の後万代不易の治世あるべしと。これ当山を国の鎮護と仰ぐ基なり。

後七百歳の星霜をへて人皇四十五代聖武天皇の御宇天平八年(736)社稷安全のために行基菩薩命を奉じて東国に下向に、この嶽は往昔日本武尊の陣営の古跡にして東国治平の源なれば、この地を卜して堂舎を立て、御長一ちゃく手半、今の三尺に準すの蔵王権現の像を彫り、これを鎔かして金銅の像を冶鋳して安置せり。そもこの勅願の叡慮は東国の愚民等ややもすれば闘争をなし、しかのみならず去年病災に罹りて諸民困苦することを憂ひ給ひてより事おこれりとぞ。その後再び勅命下りて黄金を以て鋳さしめ給ふ。これ当今安置する所の神像なり。

ここにおいて宮殿坊舎甍を並べて当国の霊場たりしが、建久二年(1191)の秋秩父庄司重忠奥州の軍に先鋒たるの功により将軍家よりこの杣郡を賜はり御嶽山に城を築きて住居せしが、元久二年(1205)乙丑重忠二俣川にして戦死せし時兵火のために宮殿以下ことごとく灰燼となれり。

その後文暦元年(1234)前摂政道家卿祈念のことありて四条帝へ奏聞して神社仏閣ことごとく故に復し散位大中臣国兼を祭祀の司職と定めらる時に鎌倉将軍頼経より神領として永銭三十六貫文の地を寄附せらるによって、司職国兼本迹縁起の神道を極め仏道の制を換えて神社の式に改め、行基が作りし蔵王の像を垂迹とし坂本なる地主の神大麻止乃豆の天神に神秘一座を加へて二座合一の神社とし、御嶽山大権現と号せり。

国兼は始め伊勢の大宮司にして姓は大中臣、氏は大枝といへり。さきに承久年中(1219~1222)新院人皇六十四代順徳帝の命に応じ佐々木広綱と共に平義時を討せんとして利あらず官軍ついに敗績して新院四国に遷され給ふの時国兼は佐渡国へ逃れたりしが、己が旧跡なりし遠江国の住人浜名民部丞といふものの家に隠れ浜名を以て氏とせり。その後寛喜元年国家の騒乱嘆きひそかに帝都の平安に復せんことを祈り奉らんとて、笈を負て諸国を順行し遂にこの山に来りしに霊夢の告を蒙りけり。果たして文暦中に至りて当山の司職となれり。その後宝治元年(1247)三浦光村が逆意をくわだてしとき国兼これに与するの流言あり。やがて鎌倉の管領より兵を発して社殿を破壊し国兼を誅せんとす。たまたま不思議の神託ありて軍士神威を怖れて近づかず。よって国兼が罪なきこと自ずからあらはれて兵革のことも止みす。建長七年(1255)二月十一日国兼司職二十一年高良山に登りて昇天せりと云う(国兼昇天のことは壬生尼の置文に詳なりと云う)。

これより後弘安三年(1280)北条時宗蒙古退治の頃祈願のことありて神体をしばらく鎌倉に迎へしがいくばくもなく夷賊みなころしとなりしゆへに明くる四年の八月惟康親王より元のごとくに神体を当山へかへしたまへり。延文四年三月八日足利義詮神馬を奉れり。ついに管領基氏より諸社堂塔修造のことあり。応永二十三年(1416)十一月上杉氏憲逆意のとき管領憲基当山に陣をとりて京軍と共に氏憲をやぶるの時山の社家軍役に従ひ功あるにより、明くる二十四年の八月社頭ことごとく造営あり。かつ今より以来武衛の事(*7)を兼ねるべしとて時の神主国房神領の外そこはくの地を賜へり。その後山内憲実崇敬あさからずして永享八年(1436)神領加増のことあり。このほか諸家よりの寄附祈願のことは枚挙するにいとまあらず。

小田原北条家関東に威を振るふとき当山の神領及び武衛の領知を削りしかば宮社もようやくおとろへたり。

天正十八年(1590)御入国の後東照宮より武衛の役を御ゆるしあり。かつ山上方一里の地と旧領三十余石の御寄附ありて御朱印を賜はり。ついで慶長十年大久保石見守に仰せて本社以下の御再建あり。ここに江城鎮護の御祈願として古より南面の社なりしを東向きに建て改められしとぞ。時に慶長十一年(1606)八月落成に及びしかば、太刀一振神馬一匹を御奉納ありて御当家繁栄のことをちかひ給ひしより社頭再び古に復して今に至ると云う。

(*7) 武衛の事・・・軍役のこと


以上

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