武州御嶽840年目の真実 §1 徳川家康はなぜ日光を選んだのか?

2025/7/11(金)

§1 徳川家康はなぜ日光を選んだのか?


栃木県日光市に鎮座する日光東照宮は、江戸幕府初代将軍徳川家康(1543-1616)の霊廟で、全国の東照宮および東照社の総本社です。その壮麗な社殿は日本人のみならず多くの外国人をも惹きつけ、富士山、京都・奈良などと並び、訪日外国人観光客の主要訪問先、いわゆる「ゴールデンルート」の一角を成しています。

東照宮の「東照」は家康の神号「東照大権現」に由来します。徳川歴代十五将軍の中で神号を贈られた、すなわち神格化されたのは家康だけです。そして、家康の御霊(みたま)を祀る地として日光が選ばれたのは、死期を悟った家康が「自分の一周忌が過ぎたら日光に小さな堂舎を建て神霊を勧請せよ。自分はそこで八州の鎮守神になる」と遺言したことによります。

しかしながら、この遺言は、生前の家康の信仰や彼が徳川の治世を盤石にするために講じた施策とズレがあります。それらは大きく分けて次の3つです。


① 家康の信仰と徳川家(松平家)の仏教宗派

② 家康の征夷大将軍の任官

③ 江戸城の都城思想


【 家康の信仰と徳川家(松平家)の仏教宗派 】

松平家は代々浄土宗の檀家でした。そして家康も敬虔な浄土宗信者であり、阿弥陀如来の力によって天下統一を成し遂げたと考えていました。

阿弥陀如来が棲む世界といえば西方浄土であり、家康も死後、西方阿弥陀浄土に往生することを願っていたに違いありません。また晩年、家康は僧との対話において、この世においては彼自身が阿弥陀如来と同体であるとも諭されています。

そして江戸の西方奥多摩の峰々の中でも、御岳山は少なくとも鎌倉時代以来、関東における金峯山浄土とみなされていた霊山であり、家康が眠る墓所あるいは霊廟としてこれほど相応しい土地はありません。

家康は豊臣秀吉から関東に転封を命じられ、初めて江戸入りした翌年の天正十九年(1591)には、御岳山に所領安堵の判物を発給しています。判物とは発給者が自ら署名(花押)したもので、朱印状などの印判状よりも格式が高い文書です。さらに慶長十一年(1606)には徳川幕府の直営で御岳山の社殿を修築しています。ですから彼が御岳山の存在を知らなかったとは考えられません。


それにもかかわらず、死に臨んで、なぜ北の日光に祀られることを命じたのでしょうか❓

✒️画像は、徳川家康の日課念仏(巻末に「慶長十七年」記載あり。重要美術品)。家康は晩年、「南無阿弥陀仏」を書写することを日課としていたとされる。家康の阿弥陀仏の西方極楽浄土への往生希求の強さがうかがえる。一部「南無阿弥家康」と書かれた箇所あり(赤枠は筆者加工)。(画像出典:東京国立博物館 研究情報アーカイブズ) https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0058611


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慶長十一年(1606)徳川幕府は、武蔵御嶽神社(当時は武州御嶽権現)に対して、武装解除および徳川家の繁栄と江戸城鎮護の祈祷に専念することを条件に、同社社殿の造替事業を執り行いました。その際に、“江戸城鎮護の祈祷専念”の姿勢を明確に示すため、それまで南向きであった社殿を現在の東向きに変更したとされています。その後も武州御嶽は、八王子代官の支配地域にありながら、寺社奉行直支配の待遇を受け続け、元禄十三年(1700)五代将軍綱吉の治世に再び幕府直営による社殿修復が実施され、それらの流れによって享保十二年(1727)八代将軍吉宗による御神宝の御上覧に結実し、御神宝に対し、将軍より「武蔵国之宝器」との称賛を得るに至ります。


【 家康の征夷大将軍の任官と北辰信仰 】

さて、徳川家康は、江戸に幕府をひらくために征夷大将軍の任官を望みました。その頃「藤原」を姓としていた家康ですが、近年の研究では、当時、源氏ではなくても征夷大将軍になることは可能であったといわれています。しかし彼は、鎌倉幕府、室町幕府の正統な後継者を標榜するためにあえて源氏に改姓しました。関東入部後、その本拠地として鎌倉も候補に挙げていたことは、それを意識したものといわれています。そして、死後江戸の真北にあたる日光に祀られることを望んだのは、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたためと伝えられています。しかしながら、北極星を妙見菩薩として崇める信仰は千葉氏に代表される平氏のものです。源氏にこだわった家康が平氏のシンボルになろうとする―、これでは辻褄が合いません。


【 江戸城の都城思想 】

さらに、自身が神となり真北から徳川幕府を守るという考えは、江戸城の思想とも相反するものです。

古来、都城には2つのタイプがありました(『周礼』より)。ひとつは「北闕型(ほっけつがた)」といい、天帝の常居を北極星と見て、天帝の命を受けた天子は北極星を背にして執政するというもので、平城京や平安京がこれに該当します。もうひとつは「中央宮闕型(ちゅうおうきゅうけつがた)」といい、天子の宮殿を天の太極☯️になぞらえ、中央こそ万物の根源、中心であるとする思想です。江戸城はまさにこの「中央宮闕型」に該当します。

家康は江戸城を整備した際、その中心にあった紅葉山に山王権現を祀りました。山王権現は、天台宗を母体とする「山王一実神道」の神で、家康が晩年、徳川政権が末永く継承されるために最もふさわしいとして崇めた神です。

元和二年(1616)四月十七日、徳川家康は駿府で死去。その1年後、彼の遺言通り日光に東照社が営まれたわけですが、さらにその翌年に、紅葉山にも東照社が建立されました。江戸城の中心に神となった家康が祀られたのです。さらに後年の明暦の大火(1657)後の江戸の町割り再編によって「中央宮闕型」の江戸城が完成します。つまり、紅葉山の東照宮が太極(中心)となり、現将軍の居所である本城と世嗣と隠居が住む西城が陽陰を構成し、徳川の分家たる水戸・尾張・紀伊(後の御三家)と甲府・館林(この2家を御両典という)の五家の屋敷が五芒星⭐️、かつ「の」の字を描くように配置され、さらにその外側に諸大名の屋敷が取り囲むという、家康の御霊を万物の根源としてそこから全てが生み出されるという壮大な呪術装置としての江戸城が完成したわけです。ちなみに山王権現は、家康が死ぬ10年以上前、江戸城の拡張工事の際にすでに城外に遷座されておりました。


以上の3点を踏まえますと、家康が強い信念で日光に祀られることを望んだようには思えないのです。

【画像の説明】

明暦の大火後の町割りで紅葉山東照宮を中心とする将軍家(江戸城内郭)の陰陽とそれを守護する御三家・御両典による五芒星(星印)の結界が完成する。御三家は家康の息子たち、御両典は三代将軍家光の息子たち、そしてさらに後年には御三卿(八代吉宗・九代家重の息子たち)が生まれる。将軍家の陰陽が旋回する、すなわち現将軍と隠居・世嗣の世代交代が繰り返されることで新たな分家が次々と生み出され、徳川が繫栄していく仕掛けを現している。左の地図は、江戸略図(元禄六年刊)を加工。


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【 迷走する家康の御霊屋と御岳山 】

正史において家康が関東における自身の霊廟の候補地を逡巡したという記録はありません。しかし、晩年家康が側近の天海を病床に呼び、自分の死後日光改葬を遺命する際に藤原鎌足の例を引き合いにしたところをみると、家康は往昔の偉人の葬礼地について色々調べていたことがうかがえます。 とすれば、自身も任官された征夷大将軍に日本史上初めて任じられた坂上田村麻呂が、王城鎮護の神として平安京の東に軍装で立ったまま埋葬されたことも知っていたことは十分考えられます。家康最初の埋葬地久能山には蹲踞(そんきょ)の姿勢で西向きに埋葬されたことは、坂上田村麻呂の事例を彷彿させます。 そして西の平安京(京の都)に対して、江戸城を東の王城とみなしその鎮守神となるならば、久能山からの改葬地として江戸の東の地域を指定してなんら不思議ではありません。神号が「東照大権現」であればなおさらです。

しかし関東の東には、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の神代軍神最強トリオが鎮座しています。これら三柱の風下にあってはさしもの神君の御威光も陰ってしまうことでしょう。また南の鎌倉には言わずと知れた清和源氏の氏神鶴岡八幡宮があり、となれば、あらためて西の御岳山はこの時点における改葬候補地として最適であったのではないでしょうか。

しかしそうはならなかった。


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【 徳川家康はなぜ日光を選んだのか? 】

家康が江戸の守護神の鎮座地として、最終的に関東北限の日光を選んだ理由は、やはり戦略的なものと思われます。 すなわち、奥州に盤踞する戦国を生き抜いた外様大名(伊達、上杉、佐竹ら)を監視・牽制するためです。当時東北方面の抑えとして、宇都宮に奥平氏10万石、館林に榊原氏10万石を配していましたが、一方で「日光山」と総称されていた輪王寺と二荒山神社は、下野国の北西部分を占める広大な山域を領有していました(18万石とも)。万が一、東北の外様大名が江戸に攻め登ってきた場合に、日光山の勢力の去就次第では、江戸防衛は重大な危機に晒されることは想像に難くありません。逆に奥州街道を南下する背後を突く位置にある日光を自陣営に取り込むことは、徳川にとって必須課題であったはずです。


【 御岳山の格式 】

そして、御岳山が選ばれなかった最大の理由は、御岳山そのものにあると考えます。つまり、御岳山には、家康が自分の霊廟を営ませることを遠慮するような存在が祀られていた可能性があるのです。言い換えれば、御岳山には、東の東国三社、南の鶴岡八幡宮に匹敵する存在が祀られていたことに他なりません。その証拠に、時代が下った元禄十三年(1700)、御岳山の神主は幕府による再度の社殿修築の御礼で江戸城に登り、将軍綱吉に拝謁した際、同様に社殿修復の御礼に登城した香取神宮の神主らと同等の待遇であったという記録があります。幕府は、御岳山を東国三社と同レベルとみなしていたのです。



【画像の説明】

家康および幕府にとって、下野国北西部を占める広大な山領を有する日光の寺社勢力を取り込むことは、「関東の喉首の地」と称された宇都宮と並び、江戸防衛の最重要課題であった?!松平(保科)家が23万石で会津に入部するのは三代家光の時代。


§1おわり

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