武州御嶽840年目の真実 §2 解答・御嶽山城

2025/7/15(火)

§2 解答・御嶽山城


【 御嶽山城に対するこれまでの評価と畠山重忠 】

武蔵御嶽神社の由緒は、『御嶽山社頭来由記』、別名『元和八年縁起』という社伝が元になっています。これは江戸時代後期に、昌平坂学問所という江戸幕府直轄の教育機関によって編さんされた『新編武蔵風土記稿』にも採用され、人口に膾炙されるところとなっております。


その中で御嶽山城(御嶽城とも)の起源については、

✒️「建久二年辛亥秋秩父庄司重忠、奥州の軍に先鉾たる功に依て将軍より此杣郡を賜ハり、御嶽山に城を築て居住し此国を押領す」 (1191年、畠山重忠が奥州合戦の先鋒を務めた手柄によって、将軍源頼朝より恩賞としてこの杣郡(そまぐん、奥多摩の旧名)を賜り、御岳山に城を築いて居城とし、この国(武蔵国)を治めた)とあります。

確かに、山上には曲輪跡や堀切跡などの城郭遺構が現在もそこかしこに見られます。ところが、標高929メートル、比高約500メートルという高所にある城は国内に他例がなく、近年までその存在は疑問視されていました。

近代の歴史地理学者高橋源一郎も、『武蔵野歴史地理』(1972)において城郭遺構の存在を認めつつも、

✒️「左程有名ならざりし山城としては規模の余りに宏大過ぎる疑ひがある。加ふるに此処にしても人を去ること余りに遠きみがある。吾人は何の必要あつてかかる山中にかかる宏大な山城を設けたかを解するに苦しむ。所詮御嶽山城は疑問の範囲を脱し得ない」 と、否定的にとらえていました。


その後の調査により、現在は山上全体が大きな城であったことが認められたものの(『増補改訂青梅市史』、『東京都の中世城館』*など)、依然その築城年代など今もなお多くの謎が残されています。『青梅市史』は「南北朝期の旧形態から脱し切れていない姿」とし、重忠の時代からおよそ100年以上降ったものとしています。


では、畠山重忠がこの御岳山に城を築いたというのは全くの虚構なのでしょうか?

画像は、御嶽山城の縄張り図

*東京都教育委員会編2013戎光祥出版

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【 畠山重忠の時代の城 】

私は重忠の築城は事実ととらえていますが、「城」違いであると推理しています。

重忠が築いたのは城は城でも軍事施設としての城ではないということです。


一般的に「城」といえば、中世後期(南北朝時代以降)の山城(長期戦用の砦)や近世の巨大な天守閣や石垣を有する要塞を思い浮かべます。当該御嶽山城も後世の遺構から重忠時代からそうであったと思いがちですし、社伝の記述もそのように解釈されています。

しかしながら、重忠が活躍していた源平時代の「防御施設」としての城は、街道をふさぐバリケードみたいなもので、しかも基本は戦闘時に臨時に作る一回こっきりの使い捨てでした。ある程度恒常的なものとして、尾根道を封鎖する木戸や門番の詰所、要するに関所みたいなものはあったかもしれません。

ただその程度でわざわざ「重忠が城を築いた」のような仰々しい言い回し、ましては社伝にはならないと思います。


というわけで、古代にはもうひとつ「城」の名にふさわしい、文字通り「土」に「成る」、そして「城」の字を使う巨大な建造物がありました。


答えはこれです。


画像は、大仙陵古墳(Wikipedia『古墳』より転載)

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【 御岳山は金峯山浄土 】

古墳、つまりお墓です。そしてお墓の古称は、


「奥つ城」です。


その意味をWikipediaの記述から引用しますと、

✒️奥都城(おくつき)とは、上代の墓のこと。またそこから神道式の墓のこと。神道式の墓石に刻まれる文字でもある。奥津城、奥城とも書く。「都・津」は、上代の格助詞「つ」に当てた万葉仮名で、「~の」の意味になる。(中略)「奥」とは、奥深い意の「奥」や「置く」を意味するといわれる。「城(き)」は、古代の「胆沢城」の「城」の用例にみるように棚・壁などで四辺を取り囲んだ一郭の場所をいい、また「柩(ひつぎ)」の意味もあるとされる。全体の意味としては、「奥深い所にあって外部から遮られた境域」ということであり、また「柩を置く場所」の意となる。


さらに御岳山はかつて金剛蔵王権現を主尊として祀る奈良吉野山と同様に「金峯山」と称されました。その奈良吉野山は平安時代には「金峯山浄土」と称され、京都の人々からこの世に現出した極楽浄土とみなされていました。かの藤原道長が極楽往生を願い登攀し埋経したことで有名です。つまり御岳山も、奈良吉野山同様にあの世であったわけです。


御岳山は、場所といい規模といい、また人々の信仰上の認識といい、奥つ「城」を築くのにまさにうってつけの場所と言えるのではないでしょうか。


重忠は、御岳山に築いたのは奥つ城であったが、長い年月を経て、また後世実際に防御施設としての城機能が敷設されたことによって、いつしかさかのぼって重忠がいわゆる城郭という意味で城を築いたとして近世に伝わったものと推理します。


ではいったい、重忠は誰の奥つ城をこの御岳山に築き、そして神として祀ったというのでしょうか?


(『解答・御嶽山城』おわり)



画像は、道長の金銅経筒(国宝・1007年・金峯神社)

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