辛垣城の戦い現場レポート #0 戦いの背景

2025/7/24(木)

Taiyaki Field Work vol.1

辛垣城の戦い現場レポート #0 戦いの背景


100年もの長きにわたって続いた戦国時代もいよいよ佳境を迎える永禄四年(1561)三月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が、関東管領上杉憲政を奉じて関東のほぼ全域の諸将を糾合し、関東最大の戦国大名北条氏の本拠小田原城を大挙して包囲しました。しかしながら難攻不落の小田原城は、軍神毘沙門天の化身と謳われた景虎をもってしても攻め落とすことは出来ず、結局関東管領軍は解散し、景虎も越後に引き揚げました。


それから半年も経たない同年八月、今度は北条氏が、上杉方に寝返った関東諸将に対し反転攻勢を仕掛けました。その真先に標的となったのが、多摩の国衆三田氏でした。


当時、北条氏は4代目当主氏政が小田原を本拠としつつ、一族を方面軍司令長官として関東の重要拠点に配置していました。西多摩方面には弟の氏照が八王子に配置され、三田氏攻略に当たりました。すでに支配領域100万石超という全国的にも最大級であった北条氏にとって、1~2万石ほどの国衆であった三田氏との勢力差は歴然としておりましたが、他の関東諸将への見せしめという意味からも、万が一にも負けることがあってはならない戦いでした。したがって、総大将たる氏照は全軍(およそ3000と推定)を挙げての出陣でした。そして大御所の3代目当主氏康がおよそ8000の遊軍をもって八王子まで出張し、後方に控えておりました。


一方、これを迎え撃つ三田氏は、以前は青梅市の東、多摩川扇状地の要部分に位置する勝沼城を本拠としていましたが、この頃には二俣尾に移っていました。この二俣尾の本拠を中心とする領域は、多摩川中流域、その激流が開析した谷あいの地で、三田氏の名を取って当時「三田谷(みただに)」と称されていました。また本拠の名は東の勝沼城に対して「西城(にしじょう)」(*1)と呼ばれていました。


中世の武家領主の本拠は、一般的に交通至便の平地部に平時の居館を設け、背後の裏山に城を築き、有事の際の避難先としていました(「詰めの城」という)。


三田氏の場合も同様で、現在JR二俣尾駅のある平地部に居館があって、背後の青梅丘陵上の辛垣城が詰めの城であったと考えられます。

そして、北条軍襲来に備えて築いたのが、辛垣城の南東、青梅丘陵の支尾根上にある桝形山城でした(*2)。


(*1)一部の文献等では、辛垣城=西城とみなされていますが、当時の山城の役割や近代の旧地名等から、海禅寺との境を東、桜橋の架かる桜沢を西、多摩川沿岸を南、辛垣城を含む青梅丘陵の主尾根を北とする東西南北に囲まれた区域全体を「西城」であったと考えられます。

(*2)他説では、北条氏襲来時に築いたのが辛垣城であるとされていますが、同城の規模の大きさからして短時日で出来るものではないので、私はこの説は採用していません。


【画像1】永禄四年(1561)小田原城の戦い直後の関東の情勢

【画像2】西城の区域(地理院地図を加工)旧小字西城は現在の二俣尾4丁目ほぼ全域


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