武州御嶽840年目の真実 §10 検証 武州御嶽縁起の謎(その3)

2026/2/1(日)

§10 検証 武州御嶽縁起の謎(その3)


【画像1】 足利直義(左)と足利尊氏(右)

あれほど仲の良かった兄弟が最終的には敵味方になって殺し合う―これは運命のいたずらか、あるいは神仏の祟りか?!

(画像出典 左:神護寺蔵 伝源頼朝像※近年は足利直義説が有力、右:京都国立博物館蔵 騎馬武者像※近年は再び足利尊氏説が有力 いずれもPD)


【 3つの縁起から読み取れること 】

『元和八年縁起』(以下『来由記』*1)の大中臣国兼による中興(13世紀半ば)以降のおもな内容は、

① 弘安三年(1280)執権北条時宗が蒙古と戦った時、祈祷のために神体が鎌倉に運ばれ、翌年惟康親王(これやすしんのう)より返還された

② 建武元年(1334)足利尊氏(あしかがたかうじ)が神領を寄進した

③ 延文四年(1359)足利義詮(よしあきら)が神馬を奉納した

④ 鎌倉公方足利基氏(もとうじ)によって社殿堂舎が修造され、以降鎌倉府の祈願が継続した

⑤ 応永二十三年(1416)上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱の際、関東管領(かんとうかんれい)上杉憲基(のりもと)が当山に陣所を構え、京軍と共に禅秀を破った。この時当山社家が初めて軍役を提供した

⑥ 翌年、その勲功によって、足利持氏(もちうじ)から全面的な社殿造営と神領が寄進され、軍役も命じられた

⑦ 永享八年(1436)上杉憲実(のりざね)に篤く崇敬され神領が加増された

⑧ 社頭が最盛期を迎え、様々な人々から寄進を受け、関東の兵乱中も平和だった

⑨ 小田原北条氏の軍が侵攻してきて、軍役に必要な領地以外は没収され、ようやく衰退した

⑩ 天正十八年(1590)徳川家康より軍役を免除され、30石の領地の寄進と徳川家の武運長久祈念を命じられた

ご覧の通り、一見、武士の歴史年表のようです。しかも登場する武将は日本史の教科書にも出てくるような重要人物ばかりです。

(*1) 正式名称 『御嶽山社頭来由記』 巻末の年号「元和八年」から『元和八年縁起』と通称。ただし本当は文化年間(1804~1818)の成立。


一番上の蒙古襲来から最後の徳川家康まで、およそ300年の歴史ですが、その間の武州御嶽の状況をひと口に言いますと、常に京都と鎌倉の間で揺れ動いていたということでしょうか。

中興の大中臣国兼および九条道家の時代は京都寄り、①それ以降は蒙古襲来時も含めて鎌倉幕府の支配下、②③鎌倉幕府滅亡後は義詮まで再び京都寄りです。ところが④基氏の時代で再び鎌倉寄りとなり、⑤の時代に京都寄りに戻ります。しかし⑥で再々度鎌倉寄りになり、⑦で再々々度京都寄りとなります。そして、⑨戦国時代には小田原北条氏の支配を経て、⑩徳川家康の関東入部後は江戸幕府の直轄となりました。


上記の登場人物について簡単に説明しますと、

① 北条時宗・・・鎌倉幕府八代執権。2度の蒙古襲来(1274/1281)を撃退した

① 惟康親王・・・鎌倉幕府七代将軍

② 足利尊氏・・・室町幕府初代将軍。自分は軍事、弟の直義(ただよし)には政務を任せ、二頭政治を目指したが程なく破綻し、足利家を二分する戦乱を引き起こした

③ 足利義詮・・・室町幕府二代将軍。尊氏の嫡男

④ 足利基氏・・・初代鎌倉公方。義詮の弟

⑤ 上杉禅秀・・・犬懸上杉家。関東管領。足利持氏に反乱を起こすが敗れて自害した

⑤ 上杉憲基・・・山内上杉家。関東管領。禅秀辞任後、持氏より関東管領に任命された

⑥ 足利持氏・・・四代鎌倉公方。六代将軍足利義教(よしのり)に反抗、これを諫める関東管領上杉憲実に対して討伐の兵を挙げるも、憲実を支援する幕府軍に敗れ自害した

⑦ 上杉憲実(のりざね)・・・山内上杉家。関東管領。持氏を自害に追い込んだ。篤学(とくがく)で金澤文庫や足利学校を再興した

②から⑦は少し複雑なので歴史の流れを補足しますと、鎌倉幕府を倒し京都に新たな幕府を開いた足利尊氏は、東国統治のため鎌倉府を設置し、その長官(鎌倉公方)として息子の基氏を派遣しました。京都の幕府では、兄尊氏と弟直義による二頭政治が展開していましたが、利害が相反する支持層(尊氏には新興勢力、直義には保守勢力)を基盤とする2人は間もなく対立し、京都を脱出した直義は鎌倉を拠点にして尊氏に抵抗を続けました。この時鎌倉時代以来の伝統的秩序を重んじる直義に東国の旧来の有力な武家が従いました。最終的に直義は敗れ、東国も尊氏の支配下となり、尊氏死後二代将軍義詮も父の路線を継承しました。しかし鎌倉公方の基氏は、京都の兄義詮と協調を保ちながらも、東国の統治は叔父の直義の路線に戻しました。その後も、京都(尊氏・義詮=兄の系統)と鎌倉(直義・基氏=弟の系統)の関係はくすぶり続けます。この両者の間でなんとか正面衝突を回避しようと腐心したのが関東管領の上杉氏です。関東管領は、鎌倉公方を補佐する役職ですが、その任命権は京都の将軍が握っていました。上杉氏との関係を“京都寄り”としたのはそのためです。


当の武州御嶽については、これほど政治力に長けた、変節極まりない霊山も他になかなか見当たらないと思います。しかし見方を変えれば、各時代の権力者および対立する両陣営が、敵方にあった武州御嶽を廃絶はおろか弾圧すらできず、むしろ味方に取り込もうとするほど強力な霊験があったことを表しているとも言えます。ではその発端はどこにあるのでしょうか。

手がかりは、有力御家人三浦氏による執権北条氏に対する武力蜂起(宝治合戦)で大中臣国兼が関与を疑われたところにあります。

国兼の述作である『建長縁起』(*2)からその部分を示しますと、

「又去宝治二年戊申上陽頃、国兼依蒙無実悪名、同二月一日為処罪科、郷人(*3)競登故欲糺其実否、於神前群集之処、神明不受非宝殿忽鳴動、見者流涙而謝過、聞者驚耳而退下、以一察万思我知人霊験惟新利生不過時者歟」

(口語訳)「また去る宝治二年春頃、(私は)無実の悪名を蒙り、同年二月一日罪に問われた。郷の人(鎌倉幕府の軍兵)が競ってその真偽をただそうと神前に群集した時、神様が(私の)罪を否定して社殿が突然鳴動した。それを見た者は涙を流して過ちを詫び、聞いた者は驚いて退散した。一をもって万を察するように、私も人も思い知らされたのは、霊験は常にあらたまって廃れることはないということか」とあります。

自身の出自については「久仕神明」と淡泊であったにもかかわらず、この部分は非常に具体的です。そして武州御嶽の強力な霊験の発端を探る上でのポイントは、末尾の「霊験惟新利生不過時(霊験は常にあらたまって廃れることはない)」の部分です。この事件で国兼も人々も武州御嶽の霊験は未だに現役バリバリだと再認識したというのです。つまり、そう遠くない過去においても武州御嶽の霊験の示現があったことを示唆しています。

(*2) 『建長縁起』の正式名称は『南瞻部州大日本国東海道武蔵国奥院御嶽縁起事』。巻末の年号「建長八年」から『建長八年縁起』と通称されています。

(*3) ここでいう「郷人」とは、山麓の庶民というよりも、山人に対する里人、つまり幕府兵を指すものと考えます。


では国兼が過去に経験した武州御嶽の霊験の示現とはいったい何時のことをさしているのでしょうか。やはりそれは、国兼が武州御嶽の司祭となった時と考えられます。すなわち、『来由記』にある「文暦元年(1234)前摂政道家卿祈念のことありて四条帝へ奏聞して神社仏閣ことごとく故に復し散位大中臣国兼を祭祀の司職と定めらる時」です。

同じ年に鎌倉幕府では、三代執権北条泰時が見守る中、嫡孫の経時(つねとき)が元服しました(*4)。その後の仁治三年(1242)経時は祖父泰時の死を受けて四代執権の座につきましたが、それから4年後の寛元四年(1246)に23歳の若さで亡くなってしまいます。その死と同時に前将軍九条頼経によるクーデター(宮騒動)が勃発したわけですが、前々回(その1)で説明した通り、その間京都では、経時の死は、頼経の父道家が呪詛したためとの風聞が流れていました(*5)。幕府の嫌疑に対して道家は、狼狽のあまりその弁明文で「調伏の法を修し武州経時を呪詛と云々、彼法を修すべきの由申さる旨無きの間、自も之を修さず人を以ても修さしめず」と語るに落ちています。

(*4) 泰時の嫡男で経時の父である時氏(ときうじ)は4代執権を期待されていましたがこの時すでに病没しています。

(*5) 道家の家司(けいし、秘書)は日記に「経時の死因は病気や何やらと色々言われているけど、本当のところはどうなんでしょうね」と思わせぶりなコメントを残しています。


さらに、弘安三年(1280)の蒙古襲来時に、執権北条時宗によって武州御嶽の神体が鎌倉に運ばれ、加持祈祷の結果、見事蒙古軍は撃退され、その霊験は決定的となりました。これ以降武州御嶽は、上記の通り、将軍や執権、鎌倉公方や関東管領、有力武将などいずれの武家からも篤く崇敬されました。現在も神社に伝わる貴重な武具や神宝がそのことを雄弁に物語っています。

そして江戸時代、『新編武蔵風土記稿』の編者が、これら一連の出来事について特に疑義を差し挟まずにそれらをそのまま掲載しました。つまり、武州御嶽の霊験を、500年後の一流の学者や幕府役人が認めていたのです。


総じて、武州御嶽は中世を通じて、その立地に反して、いずれの陣営―地政学的には京都と鎌倉、身分的には公家と武家、時代的には鎌倉幕府と室町幕府、社会価値観的には伝統勢力と新興勢力、武家階層的には有力武家から国衆レベルまで―からも畏怖崇敬された極めて特殊な霊山であったことが分かります。

このような武州御嶽の正体、すなわち、これまで再三触れている「武州御嶽の本来の祭神」とは何モノなのでしょうか。

それは蔵王権現でも不動明王でもありません。この両尊は祭神の力をむしろ制御する存在であったといえます。

そのヒントは、『来由記』に記された「神像・霊像」と「神体」と2つの言葉にあります。「神像・霊像」と「神体」は似て非なるものです。これについては、別稿にて検討したいと思います。


§10検証 武州御嶽縁起の謎(おわり)

本論は、ホストの推測を含む個人的な見解です。

次回予定 §11 武州御嶽の神像と神体と神宝(仮題)

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