武州御嶽840年目の真実 §11 神体・神像・神宝の謎(その1)
2026/2/20(金)
§11 御岳山の神体・神像・神宝の謎(その1)
【画像1】 木造蔵王権現立像(重要文化財) 源慶作 嘉禄二年(1226) 奈良如意輪寺
【 中興の祖大中臣国兼と蔵王権現―在俗の元神官が仏像を作るという異例 】
武蔵御嶽神社に伝わる縁起のひとつで、江戸時代後期の文化年間(1804~1818)成立の『御嶽山社頭来由記』(以下『来由記』)によれば、武州御嶽は、鎌倉時代初期の元久二年(1205)に畠山重忠の乱の兵火で一山荒廃した後、朝廷の超大物政治家九条道家(くじょうみちいえ)が派遣した大中臣国兼(おおなかとみのくにかね)によって復興されたと記されています。以来、国兼は中興の祖とみなされ、その祭祀は800年以上連綿と受け継がれ現代まで続いています。
復興の経緯は、国兼自身が述作した『南瞻部州大日本国東海道武蔵国奥院御嶽縁起事』、通称『建長八年縁起』(以下『建長縁起』)に詳しく語られています。なお、かつてこの縁起は偽書、つまり後世に創作されたものとみなされていましたが、最近の研究で真筆であることが証明されました。したがって大中臣国兼が実在したことは間違いないようです。
国兼は、自分のことを「散位大仲臣国兼」と表記しています。「散位(さんに)」とは、日本の律令官人(古代の公務員)の中で、位階を持ちながら官職に就いていない者を指します。律令官人は通常、位階と官職のセットが基本ですが、給料は二本立てで、位階と官職に応じてそれぞれ手当がつきました。しかし、何らかの理由(部署の統廃合や位階は昇進したけど適当なポストがないなど)で、一時的に特定の職務にない者が発生します。散位の人は、その間、臨時的な公的雑務をこなしたり、上級貴族の家司(私設秘書的なもの)に出向したりしていました。
つまり、
国兼はこの時、特定の官職には就いていないものの、律令官人という公的な身分は保持していた
ということです。
このことは、彼の武州御嶽での事績に大きな疑問を抱かせます。
『来由記』によれば、来山した国兼は、荒廃した社殿を復興し、かつて行基が鋳造したという蔵王権現の霊像をあらためて作り直しました。そしてその霊像を大口真神と「地主神」大麻止乃豆乃天神(おおまとのつのあまつかみ)と神秘一座の3つの集合体とみなして、「御嶽大権現」と称したと記されています。
『来由記』が作られた江戸時代後期の武州御嶽では、中世以来の蔵王権現(正式には金剛蔵王権現)を主尊とする修験道の霊山から、すでに神道化が進み、その権威づけのために、『延喜式神名帳』(*1)記載の大麻止乃豆乃天神社はここだと主張していた頃で、加えて、おいぬ様(大口真神)信仰が盛んであったため、これらの起源を国兼の時代に集約したわけですが、元より史実ではありません。
一方で、『建長縁起』には、「行基」、「大口真神」、「大麻止乃豆乃天神」および「神秘一座」の字句はなく、それら3つの集合体(三座合一)として「御嶽大権現」を創出したくだりもありません。そこには単に、
「建長六年(1254)の春より、宝殿造営のため、地ならしをしていたところ、厚さ十五寸の円銅をひとつ掘り当てました。この円銅から一尺二寸(約36センチ)の金剛蔵王を鋳造して安置しました」(原漢文)
とあるだけです。
しかし彼は、霊像を作る前に椎鐘(ついしょう、釣鐘)を鋳造したとも書いています。ではいったいなぜ国兼は、釣鐘や蔵王権現像を作り、このような縁起を書いたのでしょうか。
と言いますのは、大中臣国兼とこれらの事績は明らかにミスマッチだからです。
彼の姓である大中臣氏は古来、神道(律令祭祀)をつかさどる家の筆頭格ですから仏教とは対極に位置する家柄です。当時は「家職(かしょく)」といって、それぞれの家が特定の律令官職を独占し、代々世襲してそのノウハウや記録を子孫に継承していました。そして、“散位”を自称している以上、彼は在俗、つまり出家していない(僧籍ではない)ことは明らかです。前回の投稿で、国兼の出自は、当時神仏習合の浸透度が伊勢神宮に比べて格段に高かった春日大社の神官ではないかと推理しました。
しかし、そのような春日大社であっても、仏教僧(興福寺)と神官との役割分担は明確で、神官が祭神に対してお経を上げる(神前読経)ことは決してありませんし、釣鐘や仏像を作ることもありません。
蔵王権現は、修験道の守護「神」ですが、由来的には仏教の尊格です。国兼の時代では、仏像を作るのは基本的に仏師と呼ばれる僧籍にある者でした。同時期に作られた奈良金峯山の如意輪寺の蔵王権現像【画像1】は、源慶というあの有名な仏師運慶の弟子によるものです。ちなみに、蔵王権現の本山である金峯山および山伏たちは、当時興福寺の支配下にありました。
また、『建長縁起』の正式名称の表題にある「南瞻部州(なんせんぶしゅう)」とは、仏教の世界観の、須弥山(しゅみせん)を中心とする大海に浮かぶ4つの大陸のひとつで人間の住む世界を指します。
つまり、国兼は伝統的な神道の家出身であるにもかかわらず、『来由記』および『建長縁起』に記されたその事績は、あまりにも仏教的なのです。上述した、“大きな疑問”とはこのことです。これら仏教的な事績は、私は何やら証拠過剰に思え、そこに強い作為を感じます。つまり、
何かをカモフラージュするために、あえて釣鐘や蔵王権現像を作り、かつ仏教色の濃い縁起を書いたのではないか?
と思われるのです。
『来由記』を作った江戸時代の御師たちも同様に感じたためか、本来、釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩の三尊の化身である蔵王権現に対して、「蔵王権現=大口真神+大麻止乃豆乃天神+神秘一座」という独自の神道的な解釈を加え、さらに「御嶽大権現」という総称でひっくるめてしまいました。
さらに国兼は、『来由記』によれば、「寛喜元年(1230)より窃(ひそか)に自ら笈を負いて諸国を順行し、遂に当山に至る」とある通り、山伏姿に変装して武州御嶽にやって来ています。写真もなく通信も未発達であった時代に、このような形で諸人の目をあざむき、ましてやその活動が奥多摩の山中であったとすれば、国兼の素性は容易に知られることはなかったのでしょう。
しかし、そこまでしてもなお、神官の身分を捨てなかったのは、祈願の対象が、仏ではなく神であり、国兼を派遣した九条道家の認識もそうであった何よりの証拠と言えます。
だとしたら、九条道家は、いったい何に対して祈願を捧げたのでしょうか?
当時、朝廷最大の実力者で、藤原氏の氏長者として興福寺(氏寺)および春日大社(氏神)を擁し、比叡山延暦寺(天台宗の総本山)および仁和寺(真言宗の総本山)のトップにそれぞれ息子を送り込んでいた道家が、何ゆえリスクを冒して敵方(鎌倉幕府)の膝下の関東の山奥にある歴史的にまったく無名と言ってもいい山にわざわざ人(国兼)を派遣して祈願したのでしょうか。
結局、武州御嶽の祭神は、
我が国の有力な神仏がすべてそろっているはずの畿内には祀られていない(存在しない)、
しかも呼べない(依り代がない)、つまり、この世に実在した人物であった可能性が高い
のです。
それを探るヒントはやはり『来由記』にあります。
(*1) 『延喜式神名帳』とは、奈良時代以降、『延喜式』という律令の施行細則に定められた祈年祭に国家から幣帛(官幣・国幣)を受ける官社の国郡別一覧表で、祭神の総数3132座、神社の総数2861処が登録されています。これに記載されている神社は「式内社」とよばれ、由緒ある有力な神社の証しとなります。
§11 御岳山の神体・神像・神宝の謎(つづく)