武州御嶽840年目の真実 §11 神体・神像・神宝の謎(その2)
2026/2/25(水)
§11 御岳山の神体・神像・神宝の謎(その2)
【画像】 『豊原国周『夷伐神風ノ図』 文久三年(1863)
右上には暴風雨(神風)を起す軍神(鹿島神といわれていますが、小天狗を駆使しているところを見ますと違うような・・・。)
【 『来由記』に見える3種類の表記 】
九条道家の武州御嶽に対する祈願について、御岳山の縁起『御嶽山社頭来由記』(以下『来由記』)の記述から、その対象、つまり祭神および御神体(依り代)となり得る字句(アイテム)を拾ってみます。
- 「(日本武尊は)夫より御嶽山に帰陣なし給ひ群臣に告て宣く、此後千歳逆民なからしめんと自ら着し給ふ所の鎧を解かせたまひ、岩倉に納め給ふ」
- 「蔵王権現の由来を尋れハ、(中略)釈行基命を受て東国に下るに、(中略)此地を卜(うら)して便(すなわ)ち堂舎を建、御長一磔手半の蔵王権現の像を自ら彫刻し、是を溶とし金銅を以鋳冶し安置し奉る」
- 「時の大徳行基ニ済民の事を命し給ふなり、爰(ここ)に武蔵国ハ金銅を産するを以て、国民是を貢して此像を鋳る。其後勅命ありて黄金を以再ひ鋳奉る。今安置し奉る神像是也」
- 「(散位大中臣国兼)行基の作の蔵王霊像を垂迹とし、坂本の地主大麻止乃豆乃天神に神秘一座を加へ、三神合一にして御嶽大権現と称し奉る」
- 又宝物のうちに重忠が鎧・宝寿丸と号する太刀あり。此鎧ハ重忠当国所領たる時、武尊の武徳を仰きて着御の神鎧を観換して作れる所なり。(中略)往昔兵乱の頃多数の神宝を黒沢郷岩蔵の里に隠しぬるを、国兼当山を中興して悉く集め帰せし也」
- 「弘治(弘安の誤記)三庚辰年十一月鎌倉北条時宗蒙古退散強運勝利の願書あり、依て曰、此時当山往古の神体を鎌倉に迎奉られ祈願有たるに、幾許なくして夷賊退散なりければ、翌年八月惟康将軍神体を元のことく帰し奉る」
これらをまとめますと、「神鎧」と「神像」と「神体」の3つに分類できます。
問題は、これら3つが同一のものか別の個体か、具体的には、往古の「神体」とは、日本武尊の「神鎧」か、蔵王権現の「霊像(神像)」か、はたまた重忠が「鎧」のどれなのか?ということになります。ちなみに、一般的に太刀も神体になり得ますが、ここでは該当しません(理由は後述)。
『来由記』を素直に読むと一見、蔵王権現の霊像(神像)がそれに該当するように思えます。しかしながら、一般に神体と神像は似て非なるものです。すなわち、
神体とは、神の依り代、つまり神が宿るモノや場所であり、神そのものではありません。
一方で、
神像(霊像)とは、仏教の尊像、つまり仏像の影響を受けて神の姿を表わしたもの=神そのものといえます。
前回述べた通り、神官が仏像を作ることは本来あり得ません。また我が国の神仏習合の歴史において、仏僧が神に読経することはあっても、神官が仏に祝詞を捧げることはありませんでした。したがって武州御嶽の神職(国兼および神道化した江戸時代の御嶽山御師)も、仏像の一種である蔵王権現像に対して直接祈りを捧げることはないのです。それは、『来由記』の蔵王権現を垂迹として三神合一の御嶽大権現を創出したという記述によく表れています。
そもそも、蔵王権現は、忿怒の形相と姿から、いかにも軍神にふさわしい尊格と思われがちですが、実は怨敵退散や降伏のご利益はありません。その最たる証拠として、弘安の役、つまり2度目の蒙古襲来の前後に、朝廷や幕府はもちろん、院や公家ら個人レベルでも、国を挙げて全国のあらゆる神社仏閣で国土安穏の奉幣、異国降伏の祈祷が盛んに行われたにもかかわらず、蔵王権現信仰の総本山である奈良金峯山では、そのような祈祷や読経が行われた記録が見えません。
また、蔵王権現の本地である釈迦如来、観音菩薩、弥勒菩薩の三尊は当然ながら大陸が本家本元です。当時の日本では、末法思想とともに「粟散辺土(ぞくさんへんど)」といって、仏法の教えが正しく伝わらない辺境の地であるという自虐観がありましたので、地理的に仏のパワーが弱い日本では大陸の蒙古軍には勝てないのです(だから上記の通り物量作戦で対抗)。
それでも、蔵王権現が日本オリジナルであることを理由に、異国の軍勢に対抗するにしても、奥多摩の山奥にある無名の寺社の“神官”が作った像よりも、鎌倉幕府の力(権力と財力)をもってすれば、正統な仏師の手でもっと立派な像を新たに作ったほうがよっぽど験力を得られたはずです。しかし、そうはなりませんでした。
そう考えますと、蒙古退散の祈祷のために、わざわざ武州御嶽から鎌倉に運んだ「神体」というのは、やはり、蔵王権現の神像(霊像)ではなく、日本武尊の神鎧か、重忠が鎧のどちらかであったと考えられます。
そのどちらかを判断する前に、武蔵御嶽神社重代の神宝をみてみましょう。
【 御岳山重代の御神宝 】
- 赤糸威大鎧・・・国宝。源平時代。御岳山最古の神宝。源平時代の有力武将畠山重忠(はたけやましげただ)が、建久二元年(1191)に自筆の願文を添えて奉納したと伝わる。“完品”の大鎧としては現存最古。考古学的見地からも重忠の存命時代に一致、あるいは若干古いとされる。陽祭(現、日の出祭)の神幸の先頭の威儀物として供奉される。
- 金覆輪円文螺鈿鏡鞍(きんぷくりんえんもんらでんかがみくら)・・・国宝。鎌倉時代。鞍と共に轡(くつわ)、三繋(さんがい、面繋・胸繋・尻繋)と鐙(あぶみ)と馬具一式がすべて揃っている稀有な逸品。その未使用感からかつては流鏑馬祭(陰祭)で神馬(祭神の乗り物)と共に出御したものと推理。
- 紫裾濃大鎧・・・重要文化財。鎌倉時代。江戸時代には日本武尊の鎧と認識されていた。現在は、蒙古襲来時に「神体」を鎌倉に運んで祈祷した結果、見事蒙古軍退散を果たしたので、その御礼として将軍惟康親王より奉納されたものと説明されている。ただし、様式的には蒙古襲来よりもう少し古い時代のものといわれている。陽祭の神幸では、赤糸威大鎧の次に供奉される。
- 宝寿丸黒漆鞘太刀(ほうじゅまるくろうるしざやたち)・・・重要文化財。南北朝時代。大太刀。祭器名「倶利伽羅(くりから)」。祭器名の由来は、刀身全体に施された朱塗りの倶利伽羅龍の彫刻から。倶利伽羅龍は不動明王の三昧耶形(さまやぎょう)(*1)であることから、この大太刀は不動明王の象徴とみなされている。かつては陽祭に出御。神幸では上記2領の大鎧の次に供奉された。畠山重忠の奉納と伝わるが、様式による推定制作年代から否定されている。
- 鍍金長覆輪太刀(ときんながふくりんのたち)・・・重要文化財。鎌倉時代。大太刀。祭器名「隠岐院(おきのいん)」。祭器名は“奥の院”の転訛と考えられている。「不抜の御太刀(ぬかずのおんたち)」の異名をもつ。拵え(こしらえ、鞘のこと)に唐草紋様と金峯山を表す「金」の文字が随所に施されていることから、蔵王権現の象徴とみなされている。陽祭の神幸では、倶利伽羅の次に供奉された。
(*1) 三昧耶形(さまやぎょう)・・・密教において仏の性格や力を表す器物(シンボルアイテム)のこと。例えば薬師如来ならば薬壺。
以上5点の神宝は、武蔵御嶽神社に伝わる最重要宝器です。この内、2領の大鎧と隠岐院は現在も日の出祭に出御します。そして、日本武尊の鎧とみなされていた紫裾濃大鎧は、甲冑の様式的に赤糸威大鎧よりも新しい時代のものであることがわかっています。したがって、『来由記』における、畠山重忠が日本武尊の武徳を仰いで(尊敬して)尊の鎧をモデルにして赤糸威大鎧を作ったという部分は、日本武尊伝説と中世の史実とをつなげるための挿話(虚構)と考えられます。
しかし、畠山重忠の来山と赤糸威大鎧の奉納については、
「建久二年(1191)、畠山重忠が自筆の願文を添えて奉納した」
という『来由記』にはない、具体的な年代を示した言い伝えがありますので、一応、肯定してよいと思います。この口碑の信憑性については、別の機会にじっくり検討します。
ただし、紫裾濃大鎧も蒙古襲来時に武州御嶽に存在した可能性はあり、果たしてどちらが「神体」として鎌倉に運ばれたのか判断に迷うところですが、紫裾濃大鎧の、蒙古退散の御礼として奉納されたという言い伝えを踏まえますと、先に武州御嶽にあったのは赤糸威大鎧であったとするのが自然です。つまり、
神体は、「重忠が鎧」、つまり、赤糸威大鎧
と考えるのが妥当です。
赤糸威大鎧が「神体」として鎌倉に運ばれ、その返礼として紫裾濃大鎧を奉納した、という流れには傍証があります。
鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』には、次のような記事があります。
(現代語訳)「寿永三年(1184)正月八日。上総国一宮の神主らが申すには、『故上総介広常は生前、宿願あって鎧一領を当宮宝殿に奉納されました』と。武衛(頼朝様)は『きっと深い事情があるに違いない。使いをやってその鎧を見てみようではないか』と仰いました。よって本日、大和判官代藤原邦道と一品坊昌寛らを遣わして、頼朝様の鎧2領を奉納なさいました。なぜなら、『奉納鎧はすでに神様のもので、断りもなく持ち出すのは憚りがあるから、この2領で1領と取り替えれば、神の祟りもないだろう』とのことです。」
つまり、神宝の鎧を持ち出すのなら、同じものを代わりに奉納しないと神の祟りに遭うという考え方が当時あったということです。これを武州御嶽に置き換えれば、紫裾濃大鎧を返礼として奉納したということは、武州御嶽から鎌倉に運び出された「神体」は大鎧、すなわち赤糸威大鎧であったと推定できるわけです。
【 結局、九条道家は何に祈願したのか? 】
したがって、
赤糸威大鎧こそ武州御嶽の本来の「神体」であり、
赤糸威大鎧を依り代とする神こそ武州御嶽の本来の祭神であり、
この祭神こそ九条道家が大中臣国兼に命じて祈願を奏上した対象であった、
ということになります。
では、この赤糸威大鎧に宿る神とはいったい誰なんでしょうか。
この赤糸威大鎧は、一般には重忠の着用鎧であるとしばしば説明されていますが、上記の通り、武蔵御嶽神社の言い伝えでは、この大鎧が重忠の所用とは断定しておりません。『来由記』によれば、重忠は日本武尊の武徳を仰いで赤糸威大鎧を奉納したわけですが、この日本武尊に仮託された人物こそ赤糸威大鎧の本来の着用者なのです。このことと、過去の投稿で重忠が御岳山で築いた城というのは防御施設の城ではなく奥津“城”、すなわち墓であったとした推理は、相互に補完し合っています。
ところで、故人が生前愛用した品物を「形見(かたみ)」といいますが、特に直接肌に触れる衣類は死者の霊魂がこもっていると考えられていたそうです。とすれば、もし故人が武士であれば、甲冑はその御霊が宿る依り代として最もふさわしいといえるでしょう。
果たしてその人物とは、生前、重忠の上官で、軍政官として荒廃した畿内の治安維持と復興に手腕を発揮し、中でも藤原氏の氏神である春日大社の神領から、兵粮米や人員を徴収したり狼藉しないよう配下の武士たちに厳命して、同社存続の危機を救いました。その結果、後の時代に、春日大社に奉仕する金春座をはじめとする大和猿楽が誕生したわけです。またその人物は、戦場においても神懸かり的な戦法で野戦はもちろんのこと、海戦をも制してその天才ぶりを天下に示しました。しかし鎌倉幕府から“京都寄り”の武士とみなされて非業の死を遂げたために怨霊と化したのです。そして、生前の力量の高さゆえに大天狗(大天魔)となる一方で、その死を惜しむ人々から、生き延びて大陸に渡り、蒙古軍の祖となったとも考えられました。 武士の守護神である八幡大菩薩も、怨敵退散の加持祈祷の中心尊格であった不動明王も、元をたどればいずれも大陸由来です。しかし、この人物はまぎれもなく我が国最強の武人(もののふ)であり、それが大天魔と化して宿る神体をもってすれば、迫り来る蒙古の大軍を迎え撃つ鎌倉幕府ひいては我が国において、これほど心強い存在はありません。
誰だかもうお分かりですね。
(追記)
実は、その人物と九条家の因縁は、時を越えて意外な形で再開を果たします。
時は、道家からおよそ250年下った戦国時代、当時の九条家当主尚経(ひさつね、道家から12代後)の日記(*2)に次のような話が載っています。
「執事の唐橋在数(からはしありかず)が言うには、室町幕府管領の細川政元が近ごろ安芸国より司箭(しせん)という山伏を呼び寄せて、鞍馬寺で兵法を学ぶという。世間では政元は修験道に凝っているから天狗の法でも学ぶのかと、不審がられていた。同じころ在数は通夜の勤行のため、東福寺(*3)の僧侶を連れて鞍馬寺に参籠したところ、政元たちもちょうど参詣していて宿坊も同じだった。しばらくの間、看経(かんぎょう、お経を黙読すること)を行い、夜も更けて、政元と司箭が酒を飲んでいる間、その僧侶と語らって密かに政元たちが兵法を学んでいた道場に行ってみたところ、本尊といえるようなものはなく、短冊のような紙切れが一片かかっていた。そこには一行、『張良化現大天魔XXX神』(*4)と書かれてあったそうだ。在数も僧侶も仰天して慌てて寺から逃げ帰って来たという、なんとも説明のつかない話だ。」
(*2) 『後慈眼院殿記』 明応三年(1494)九月二十四日条
(*3) 東福寺は、九条道家が九条家の菩提寺として京都に建立した臨済宗の大寺院。寺名は、東大寺と興福寺(藤原氏の氏寺)から採りました。表向きは禅宗の寺ですが、内実は極めて密教的であったといわれています。特に奥の院の光明峯寺は毘沙門天が本尊で、その跡地は今でも異様な雰囲気が漂っています(御壺之瀧)。
(*4) Xに名前が入ります。あえて伏字にしてます。
§11御岳山の神体・神像・神宝の謎(おわり)
本稿は、ホスト独自の知見に基づく個人的な見解です。
次回予定 §12 日の出祭―御神幸と大般若経の謎