武州御嶽840年目の真実 §12 日の出祭の謎(その1)

2026/3/22(日)

§12 日の出祭―御神幸と大般若経の謎(その1)


【 日の出祭の概要 】

東京都の西多摩の中心部、青梅市、奥多摩町、檜原村、あきる野市の4市町村の境となる4つの尾根筋の頂点に位置する御岳山は、関東有数の山岳霊場として、残存する古文書の年代から少なくとも800年の歴史を持ち、これまで山伏を含む多くの修行僧や参拝者を受け入れてきました。

その御岳山の山頂に鎮座する武蔵御嶽神社の春の例大祭を「日の出祭(ひのでさい)」といいます。文書で確かめられる最古は江戸時代前期の明暦四年(1658)ですが、祭器のひとつである太刀の銘文には「弘治四年(1558)二月八日」とあり、すでに戦国時代後期に執り行われていたと考えられている非常に由緒ある祭礼です。また、出御する神輿の飾り金具は、室町時代初期(14世紀前半)のものといわれており、その始まりはさらにさかのぼる可能性があります。

祭日は、弘治四年(それ以前は不明)から明治時代までは旧暦二月八日、新暦採用後は3月8日、そして大正時代に5月8日となり、今年、令和八年から4月29日に変わります。実に100年ぶりの大改革です。

祭礼は前日の宵宮(よいみや)から始まります。日没後、暗闇の中で本殿の御扉が開かれ、祭主である宮司が祭神をお迎えします。白帳に囲まれた祭神は、神職に守られながら参道を下り、宿坊街を抜け、御旅所までお渡りになります。御旅所に到着すると、神輿に鎮座し一晩お過ごしになります。翌朝、神輿は御旅所から威儀物(いぎぶつ、神宝や祭具のこと)を従えて御岳平にお進みになり、宮司以下神職、参拝者、護衛の鎧武者などの随行者一同会した中で、祝詞が奏上されます。御岳平での祭典が終了しますと、祭礼の中心的神事である御神幸(ごしんこう、神社に還幸する祭神と神宝や祭具と護衛武者からなるパレード)に移ります。

「召立て(めしたて)」といって、古儀に則り威儀物がひとつひとつ呼び出され、神輿を中心にした御神幸の隊列が編成され、順番に御岳平を出発します。随行する参拝者を含めれば100メートルにも及ぶ長い御神幸は、静寂に包まれた森林の参道を、法螺貝や神職が奏する雅楽の音色が荘厳に響く中、山頂の神社に向かってゆっくりと進みます。神社に到着すると、小休止の後、最重要宝器の大鎧と太刀が合流してあらためて召立てがなされ、本殿のまわりを3周します。そして、正午にはすべての行事が終了し、午後にはまるで何事もなかったかのようにいつもの静かな境内に戻ります。


映像は、日の出祭の様子 Life is 御岳山 【公式PR動画】武蔵御嶽神社 / 日の出祭 "令和六年版"より


【 日の出祭の起源 】

日の出祭のルーツは、山伏の集団入峯式(春の峯入り、山開き)といわれています。しかし実際のところ、現在の日の出祭の様子を見て、山伏の峯入りを思い浮かべる人はほとんどいないと思います。しいて両者の共通点を挙げるとすれば、春に行われること、大祭に出仕する神職も峯入りする山伏も前日までに一定期間精進潔斎すること(武州御嶽の場合7日間)、御神幸が峯入りする山伏集団の隊列に似ている、といったところですが、どれも神社の祭礼では一般的に行われていることで、形式上、日の出祭の起源を山伏の集団入峯式に限定的に求める要素には見えません。

また武州御嶽では、江戸時代の中期(18世紀前半)以降、仏教的要素を希釈して神道化が進められ、社僧の世尊寺が退転し、さらに江戸時代後期(19世紀前半)には、度々引用してきた武州御嶽の通史的縁起である『御嶽山社頭来由記』(以下『来由記』)が作られ、そこには鎌倉時代にさかのぼって神主の大中臣国兼が仏教から神道に切り替えたとしてきました。その後、明治新政府によって神仏分離令および修験道廃止令が布告されると、仏像や仏典その他仏教的な要素を一切排除して神社神道の立場を明確にし、現在に至るわけです。これに伴い、日の出祭の御神幸に供奉する威儀物も、仏教的なもの(倶利伽羅大太刀や仏具仏典類)はすべて神道的なものに取り替えられました。

そのような状況下で、神社の例大祭のルーツが、仏教色の濃い山伏の集団入峯式であったと主張するのは、実にちぐはぐな話です。

結局、日の出祭の起源を、山伏の集団入峯式とはっきりと唱えるようになったのは、戦後、修験道が解禁されてからのことと思われます。ただし、江戸時代の文書に「陽祭山開」と記されていたことから、日の出祭が山開きを兼ねていたのは事実であったようです。近代以前、神坐す深山に「山開き」をして入山するのはもっぱら山伏(山岳修行僧)であったわけですから、日の出祭の起源を山伏の集団入峯式に求めることは、あながち間違いとはいえないようです。

ではなぜ江戸時代から神道化を推進しつつも、日の出祭と山伏の集団入峯式が結びつけられたのでしょうか。

それは上記のような形式的な類似点ではなく、

日の出祭の本質が、山伏の集団入峯式(峯入り修行)のそれに通じているからに他なりません。

実は、とある御岳山御師の言葉に、「(日の出祭の)祭本来の意義は失われましたが、今日でも最も重要な例祭」というものがあります。同祭の本来の意義(=本質)は、「山伏の集団入峯式」というイメージに託されて、辛うじて御師間に伝えられてきたものと思われます。


【 御神幸の謎 】

御神幸は、神輿を中央にいただき、前陣と後陣から構成され、御岳平で副祭主の呼び掛けに応じて、威儀物が召立てられる、日の出祭の中心的な儀式です。

神社に伝わる享保三年(1718)の祭礼役儀帳から、明治維新以前の隊列の順番を列記しますと次のようになります。

<前陣> ①甲(かぶと)、②甲(かぶと)、③鎧、④鎧、⑤倶利伽羅、⑥隠岐院、⑦その他の太刀多数、⑧手長

 御輿、警固武者

<後陣> ①神馬並びに警固武者、②御幣、③笛吹、④太鼓、⑤法華経、⑥十六善神、⑦大般若経並びに警固武者、⑧大集経、⑨注連竹、⑩榊

先ずざっと全体を見て気付かされるのは、前陣で奉持される神宝はすべて武具ということ(⑧手長とは、祭主の補佐役を務める神職のこと)、後陣も祭祀用具や雅楽器(実際はその奏者)および仏教経典を除けば、あとは武具ばかりです。そして、要所々々に警固武者(甲冑姿)が配置されています。同祭御神幸が“日の出祭武者行列”とも称されている所以です。

<前陣>①番から④番は、赤糸威大鎧(国宝、源平時代)と紫裾濃大鎧(重文、鎌倉時代)で、それぞれの兜と鎧(胴と袖)が別々に奉持されていることが特徴的です。

この点について、武州御嶽の宝物を監修している齋藤愼一氏は、「あたかも中世の騎馬の主人に郎党下人が主人着用の甲冑を兜着、鎧着として別々に所持して従うよう(*1)」であると述べています。だとすれば、日の出祭の御神幸は、一軍の将の出陣式を表現したものとみなすこともでき、このことは、祭神が観念上の神仏ではなく、かつて現実世界に生きた武将が神格化した存在であるとする有力な根拠になると思います。

次に、⑤の倶利伽羅は、宝寿丸黒漆鞘太刀(大太刀、重文、南北朝時代)で不動明王の化身です。

そして、⑥の隠岐院は、鍍金長覆輪太刀(大太刀、重文、鎌倉時代)で蔵王権現の化身です。

武州御嶽は、中世以来、金峯山修験および真言密教寺院として二大尊格(蔵王権現と不動明王)を“表向き”本尊としていたはずですが、日の出祭では、ご覧の通り、二尊とも、祭神の威儀物として御神幸に供奉しています。しかも召立ての順番から、他の多くの奉納太刀を引き連れて祭神を先導するような、“露払い”的役割を演じています。つまり、御神幸は、

武州御嶽の本来の祭神が、蔵王権現でも不動明王でもない

ということを、目に見える形ではっきりと表わしているのです。

(*1) 「「将軍上覧」と『集古十種』―武蔵御嶽神宝の存在感」 『歴史的環境の形成と地域づくり』 (馬場憲一編著2005 名著出版)所収

【画像】 都落ちする平家武者たち 騎乗の上級武者は行軍中重い兜は着用せず従者にかぶらせている(板橋貫雄模写 1870 国立国会図書館デジタルコレクションより)

§12 日の出祭―御神幸と大般若経の謎(つづく)

本稿は、ホスト独自の知見に基づく個人的な見解です。

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