武州御嶽840年目の真実 §12 日の出祭の謎(その2)
2026/3/23(月)
§12 日の出祭―御神幸と大般若経の謎(その2)
【 神輿の謎 】
神輿の出御は、形式上、すなわち見た目から、日の出祭が山伏の集団入峯式とは大きく異なる点です。
現在、神社では神輿を2基所蔵しています。古い方(神社では「本神輿」と呼称)は、元禄十三年(1700)徳川五代将軍綱吉から寄進されたもので、青梅市の有形文化財に指定されています。武家の棟梁の寄進にふさわしい質実剛健な作りで威厳に満ちています。台輪(神輿の土台部分)は約120cm四方のいわゆる「四尺神輿」で、重量は公表されておりませんが、一般に「四尺神輿」は「百貫神輿」とも呼ばれることから、百貫=約375kg、少なくとも300kg以上はあるものと推定されます。
屋根と唐戸(堂の御扉)および裳袴(もはかま)に、徳川将軍家の寄進であることを表す三つ葉葵の紋章があしらわれています。
そして、神輿を飾る金具類―鳳凰・華鬘(けまん)・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)―は、室町時代初期のものと推定されています。
御輿の本体に時代の大きく異なる部品がついている状況は、次の2点において重要です。
1つは、飾り金具がそのまま転用されていることから、室町時代初期(14世紀前半)の神輿は、江戸時代の本神輿と同サイズであったということ。したがって、当時から祭礼の規模が同レベルあるいはそれ以上であった可能性が高いです。2つには、将軍という最高権力者から寄進された新品の神輿に中古の部品を転用してもお咎めがなかったということです。現在、他の事例を調べていますが、もしこれが異例であるとすれば、武州御嶽の権威―むしろ霊威というべきか―は、江戸時代においてもなお、世俗社会の最高権力では規制できないほど強大であったことを示します。
このような、歴史的に非常に貴重な本神輿を、神社ではごく最近まで毎年使用していました。通常、百貫神輿といえば、100人ぐらいの担ぎ手が必要ですが、登山道を整地しただけの御岳山の参道は、そのような多人数が一同に歩けるほど広くありません。さらに、御岳平から神社までの比高差は約100メートルもあります。途中、手ぶらで歩いてもキツい急斜面の坂がいくつもあり、最後は330段の階段です。そのような参道をたった20人足らずで担ぎ上げるのです。東京都や青梅市の懇請を受けて、平成17年(2005)より、ひと廻り小さい神輿を新たに作り、通常年はこちらを使用しています。ただし、酉年の式年大祭と卯年の大口真神大祭には、本神輿を使用しています。
【画像1】 御旅所から出御する本神輿(平成29年=2017年の酉年式年大祭)
【画像2】 拝殿前の急階段を登る本神輿(同上)
さらに興味深いのは、室町時代初期の装飾金具のうち、幢幡と瓔珞は他にはない独特なデザインとなっていることです。
すなわち、この2つの金具は、密教の輪宝(法輪とも)がモチーフになっています。輪宝は仏教の教義そのものを図像化したものとされ、密教の修法、すなわち不動法や五壇法を代表例とする護摩祈祷(壇上で護摩木を焚き、導師が神仏と一体化し、神仏の力で祈願を達成する儀式)の際、中央の火炉の奥にひとつ据えられる法具です【画像3】。その法力(攻撃力と防御力)は数ある法具の中で最強とされるものでした。
【画像3】 輪宝
【画像4】 輪宝を無数にあしらった瓔珞と幢幡(画像1の拡大)
この密教の輪宝をモチーフにした飾り金具が、わが国の中世、肉体的な武力は武士が担い、精神的な武力は仏僧が司り、密教の加持祈祷が全盛であった時代の産物であることを踏まえた場合、それは単に神仏習合を象徴する意匠(デザイン)の一例と評価するだけでは片付けられない、強い呪術性が込められているものと解釈して異論はないと思います。
では、どんな呪術性が込められているのでしょうか?
あくまで主観ですが、四角四面の神輿の胴に沿って輪宝が無数にあしらわれた瓔珞が下がり、角のすき間を塞ぐように輪宝が三段に連なった幢幡が屋根の四隅に吊るされている様子は、あたかも祭神に万が一にも外に出るスキを与えまいとしているように見えます。
ちなみに現在、全国で国宝ないし重要文化財に指定されている神輿は13件あり、ほとんどが武州御嶽の本神輿の装飾金具と同じ室町時代のものですが、輪宝など仏教的なものが取り入れられているのは、和歌山県の丹生都比売神社の神輿だけです。もし他の12件の装飾金具が当時からのものであったとすれば、武州御嶽と丹生都比売神社の神輿の装飾金具は、当時においても極めて異例なものであったといえます。
このように、我が国の中世仏教において最強の法力を発現する不動明王と、それを体現する修法(護摩祈祷)を勤行する修験者の守護神である蔵王権現、これら二大尊格を両刀(武器)にして駆使する祭神は、そのパワーの強さゆえに、密教の最強法具である輪宝をあしらった瓔珞と幢幡でがっちり囲まれた神輿に封じ込められた形で渡御されています。そして、そのような神事が、700年も連綿と続けられているのです。
この祭神のパワーの源泉は何か?それは、次に紹介する威儀物から明らかにできます。
【 大般若経の謎 】
神輿に続く<後陣>の最初は①神馬と警固武者です。現在は馬は出ませんが、蒔絵鞍(青梅市指定文化財、室町時代)が奉持されています。記録によれば、神馬は、祭礼中最大で3頭供奉しており、それぞれに鞍および馬具一式が装備されていたことはいうまでもありません。したがって、往時は円文螺鈿鏡鞍(国宝、鎌倉時代)も出ていたものと思われます。これを一軍の将の出陣風景に照らしてみれば、乗用馬と替馬2頭ということになり、祭神である武将は相当の大物であることを暗示しています。
次に②御幣と③④雅楽の一団が過ぎますと、仏教的なものが並びました。⑤法華経、⑥十六善神、⑦大般若経、⑧大集経の4点です。
⑤の法華経は、古来、わが国には縁の深い経典として、平安時代以降は、宮中や上級貴族、諸大寺における追善供養の法会でさかんに読誦されました。小乗大乗の対立を越えて全ての人間が平等に救済されることを強調し、それこそが仏陀の本来の教えに立ち返るものであると説かれています。
⑥の十六善神(じゅうろくぜんしん)は、大般若経を守護する十六尊の護法善神のことです。
⑧の大集経(だいしゅうきょう)は、武州御嶽が南北朝時代の貞治二年(1363)から応永七年(1400)にかけて刊行したいわゆる「五部の大乗経」のひとつで、全50巻の経典です。
そして特に注目すべきは、⑦の大般若経(だいはんにゃきょう)です。
大般若経(正式名称:大般若波羅蜜多経)は、大乗仏教の基礎的教義が書かれた600巻というぼう大な数の経典群で、「空」の思想を中心として物事への執着から解放され、心の安定を得るための知恵を説いています。ちなみにこれを260文字に集約したものが、あの有名な般若心経です。
そして、日本の中世仏教史ではもはや常識といえるのですが、密教の修法、中でも不動法(ふどうほう)で広く使用されたのがこの大般若経なのです。不動法とは、不動明王を本尊とする修法で、調伏(ちょうぶく)の祈祷の際に行われた修法です。五壇法は不動法の拡大版で、5基の護摩壇にそれぞれ不動明王を中心とする五大明王(不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉)を安置して修されました。
調伏とは、「調和制伏」という意味の仏教用語で、内には己の心身を制し修め、外からの敵や悪を教化して、成道に至る障害を取り除くことです。そしてその功徳(目的・効果)は、調伏の対象、つまり祈祷の依頼主にとって障害となる敵や悪が、政敵や反対勢力であれば「呪詛」となり、戦の相手であれば「怨敵退散」、また病気や災害をもたらす魔物や物の怪であれば「怨霊降伏」「雨乞い」、政敵の呪詛から娘の出産を守るためなら「安産祈願」となります。
【画像5】 『御産の祈り』安田靫彦 1914 東京国立博物館所蔵
「怨霊降伏」は、その字面から“エクソシズム(西洋の悪魔祓い)”のようなイメージが持たれがちですが、その実は、復讐の念に取り憑かれて冥界をさまよう、または修羅地獄の苦しさにもだえる怨霊に対して、上記の通り、“教化”、つまり仏の教えをとうとうと説き、恨みを捨てるよう言い聞かせて成仏を促すものです。この時説かれる仏の教えが大般若経だったのです。また、神仏習合の時代において、神前読経、すなわち神の怒りを鎮め心を和ませる際に用いられたのも大般若経でした。しかし、荒ぶる怨霊は時に怒りや苦しみのあまりに導師(修法を行う密教僧)に反撃してくることもしばしばあったため、彼らも命がけでした。その反撃に耐え修法を完遂できるのは、山中で厳しい修行を経て験力を得た山伏、すなわち修験者であり、彼らの守護神が蔵王権現なのです。
武州御嶽では、鎌倉時代末期に鎌倉で刊行された大般若経を社僧の世尊寺がたびたび修理したという記録が残っています。当然、使っていたから破損劣化したわけで、それが江戸時代の日の出祭御神幸に供奉されていたわけです。
600巻という膨大な数ですから、御神幸の際にはいくつもの経箱が列を成していたに違いなく、見る者に強烈なインパクトを与えていたであろうことは想像に難くありません。
そして、世尊寺は、拝殿内の不動明王を本尊とする護摩壇にて、その先に鎮座する祭神に対して祈祷することを日課としていました。ちなみに、「世尊(せそん)」とは釈迦の尊称ですので、同寺の本尊は釈迦如来であることはいうまでもありません。つまり、世尊寺住職は、江戸時代後期の天明八年(1788)に廃寺となるまで実に500年以上もの間、自寺の本尊に対するお勤め(読経)とは別に、日々山頂の本社に参籠して、祭神に対して不動法を執行し、大般若経を読誦していたのです。
そんな中世・近世の武州御嶽とともにあった大般若経ですが、残念ながら明治維新の際に放てきされてしまい、現在はわずかにその奥書(巻末の部分)だけが御師家に伝わっています(非公開)。
以上、「大般若経」、「不動法」、「蔵王権現」の3点と、500年もの長きにわたる日課の勤行から、
武州御嶽で行われていた修法の目的は、「怨霊降伏」であったに違いありません。
そして、これまでの考察を総合しますと、
武州御嶽の本来の祭神は、超一級の武将の怨霊
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という結論に達します。
そして、そのパワーの源泉は、凄まじいばかり怨念だったのです。
では、怨霊を祭神とする武州御嶽の例大祭「日の出祭」の本質とはいかなるものであったのでしょうか。
§12 日の出祭―御神幸と大般若経の謎(つづく)
本稿は、ホスト独自の知見に基づく個人的な見解です。