武州御嶽840年目の真実 §12 日の出祭の謎(その3)

2026/3/30(月)

§12 日の出祭―御神幸と大般若経の謎(その3)

【画像】 2月25日朝6時頃の空


【 日の出祭の本質 】

武蔵御嶽神社ではかつて、春の日の出祭を「陽祭」、秋の流鏑馬祭(やぶさめさい)を「陰祭」と称し、さらにこの2つの祭礼をあわせて「両祭」と称して重要視してきました。

日の出祭は、現在、朝8時頃から始まり正午前まで執り行われていますが、「陽祭」と呼ばれていた頃はもっと早く、明六つ(あけむつ)から始まって四つ時(午前9時から10時頃)には終わってしまったといいます。明六つは、卯の刻(うのこく)ともいい、日の出を正刻とする前後およそ2時間程度(*1)を指します。その初刻(しょこく、始まり)は5時過ぎ、下刻(次の辰の初刻)は7時前ということになります。例えば、記録上最古の弘治四年(1558)二月八日は、新暦2月26日に相当し、計算上日の出時刻はおよそ午前6時過ぎとなります。もし祭礼が、明六つの始め、つまり卯の初刻から始められていたとすれば、時期的にまだ遙か東の空が少し明るく見える程度で(冒頭画像)、標高800メートル以上とはいえ、当時木々鬱蒼とした御岳山山中では、辺りは手元もろくに見えない暗闇であったはずです。したがって、「陽祭」と称された往昔の日の出祭は、現在とはかなり趣の異なる、暗闇空間で開始されていたことになります。

(*1) これを「一刻(いっとき)」といい、不定時法により季節によって長短しました。「半刻(はんとき)」はその半分で現在の1時間程度。

日没を待って始められる陰祭に対して、日出前に始められる陽祭、つまり両祭は、夜の始まりと終わりに執り行われた“夜の祭り”であったわけです。

このことは一見、「くらやみ祭り」と称された武蔵府中の大國魂神社の例大祭に通じるように思われますが、同祭の場合、神聖な神輿渡御を人目に触れさせないため、かつて深夜に街の明かりを消した暗闇の中で執り行われたことに由来するのに対して、武州御嶽の陽祭の場合は、神輿が神社に還御する四つ時(巳の刻)はすっかり日も昇っているわけですから、その意味するところは全く異なるといえます。

武州御嶽の陽祭について、前出の齋藤愼一氏は同じ論文の中で、「その祭儀は祈年祭(としごいのまつり)とも思われるが、斎行の刻限からは神霊再生の御生の神事(みあれのしんじ)とも思われる」と述べています。

「御生神事」とは、京都の下鴨神社の例大祭「葵祭(あおいまつり)」の前祭として執り行われる御蔭祭(みかげまつり)の旧称で、葵祭に先立ち、賀茂の神が降臨したといわれる御蔭山で生まれた新しい神霊をお迎えする儀式です。同祭の式次第は、江戸時代の記録によりますと、旧暦四月の午の日、辰の上刻(午前7から8時)に神職の行列が、下鴨神社から北東およそ5キロメートル先にある御蔭山のふもとにある御蔭神社に向けて出発し、御蔭神社にて神霊を御生木(みあれぎ)に移し、それを神馬に乗せて下鴨神社に戻ります。その後、社叢(しゃそう)にて舞楽を奉納して神霊をもてなし、御生木を神馬から本殿に移して夕刻に終るとあります。

そうしますと、開始時には未だ暗闇が辺りを覆っていて午前中に終了する武州御嶽の陽祭に対して、朝から夕方にかけて終日執り行われる御生神事との類似性を、刻限に求めるのは適当ではありません。両者の類似性は、むしろ神霊を山からお迎えするという神事の目的そのものにあるのです。

すなわち、武州御嶽の祭神も、平時は甲籠山の奥の院に鎮座していて、祭礼時に本社にお迎えしているのです。

しかし、武州御嶽の陽祭が、「御生(みあれ)」、つまり祭神のこの世での再生復活を願う、あるいは復活を祝う儀式であったとしたら、御神幸の際にあの世での成仏を促す経典(法華経と大般若経)が供奉されるのは大きな矛盾です。

これをどう説明したらいいでしょうか。

この矛盾を解くカギこそが、「山伏の峯入り修行」なのです。

すなわち、山伏の峯入り修行の本質は、

「死と再生の儀礼」

にあります。

古来、山伏たちは、他界とみなされた山中(峯中)で、厳しい修行を通じて擬死することで、これまで犯した一切の罪穢を浄化し、さらに自身の中の価値観を否定し、限りなく個としての己れの存在を無にすることで自然と一体化し、自然のパワーを秘めた新生児のように無垢な心でよみがえることを目指しました。価値観の否定とは、自分のこだわりや正義感、理想を捨て去ることですから、それらと現実や他人とのギャップによって生じる恨みつらみ、妬みも当然無くなります。

この「死と再生の儀礼」という視点で、あらためて陽祭を見ますと、夜のフェーズで祭神の葬儀を行い、朝のフェーズで御生の神事を執り行う、2段階構成の祭礼であったことが分かります。ですから、大國魂神社の「くらやみ祭り」のように深夜でもなく、下鴨神社の御蔭祭のように日中でもない、夜と朝にまたがる独特な時間帯に執り行われていたのです。

そして、祭神でありながら葬儀を行うということは、武州御嶽の祭神は、冥界の住人であることを意味しています。

【 武州御嶽の2種類のあの世 】

祭神が平時に鎮座している甲籠山は、同じ“あの世”でありながら、「金峯山浄土」といわれた奈良吉野の金峯山を模した御岳山とはまた別の世界です。『新編武蔵風土記稿』の「御嶽社」をあらためて確認しますと、次のような記述があります。

奥院 本社より西の方十八町ばかりを隔て、甲籠山の中腹に特立せる盤岩にあり。これを岩倉と唱えり。社地の内およそ十五六歩小社にて前に二間に九尺の拝殿を立て、祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、火産霊(ほむすび)二座なり。神体は円径八寸ばかりの鏡にして右手に剣を擁し左手を膝上に置き、面相威厳ある像を鋳出せり。

奥之奥院 奥院の後背なる絶頂にあり。社地およそ二十坪ばかり。石の小祠にて銅扉なり。大天狗小天狗櫻坊の三座をあわせ祀れりという。

イザナミは、死して黄泉(よみ、「闇、山」と同義とも)の世界、すなわち冥界の主となった女神です。ホムスビは、イザナギとイザナミの子神ですが、ホムスビを産んだことが原因でイザナミが死んだことに腹を立てたイザナギによって斬り殺されてしまいます。しかしその際、多数の神が化生したことで、生命の連続を象徴する神とも考えられています。大天狗小天狗櫻坊の三座は、過去の投稿で、「大天狗小櫻坊」単座の誤りであり、この小桜坊こそ武州御嶽の本来の祭神であるとしました。そして、中世における大天狗は怨霊がさらに狂暴化したものであると説明しました。

大天狗と化した武州御嶽の祭神の怨霊パワーの強さは、甲籠山においてイザナミよりも上位に鎮座するという位置関係から、イザナミのそれをはるかに凌ぐものと認識されていたと考えられ、当時の人々がいかに武州御嶽本来の祭神を怖れていたのかがよく分かります。ちなみに、現在甲籠山山頂にある石小祠には愛宕権現が祀られていますが、愛宕信仰の総本社のある京都の愛宕山(924メートル)は、三大怨霊のひとり、崇徳上皇が大天狗となって天下大乱の謀議をしていた御座所として有名です(『太平記』国民文庫刊巻二十七「雲景未来記事」)。

古代・中世において、政争での失脚者や戦乱での敗北者、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の中で、特に生前、高位の者あるいは能力の優れていた者の魂は怨霊化して、相手や敵、ひいては社会全体に災い(祟り)をもたらすと考えられていました。さらにその怨念が極めて強い場合、その怨霊は大天狗(または大天魔)に化身するといわれていました。しかし一方で、怨霊に対して、生前の官位に復したり、諡号・官位を贈って怒りを鎮め、うやうやしく祀れば、鎮護の神となって平穏を与えてくれるという考え方がありました。この鎮護の神となった怨霊を特に「御霊(ごりょう)」と尊称しました。これが御霊信仰というもので、その鎮魂のための儀式として最初に始まったのが御霊会(ごりょうえ)という宮中行事で、後に祇園祭となりました。

したがって、大天狗と化した武州御嶽の祭神に対しても、祭祀を怠りなく遂行すれば、地域ひいては国家全体の守護神になってくれるものと信じていたに違いありません。ただし、そのためにはまず、一旦きちんと供養して成仏していただく必要があったです。その弔いの証が、御神幸における大般若経をはじめとする仏典の供奉なのです。

供養の結果、前世の因果から解き放たれ、成仏した魂は、御霊として武州御嶽の金峯山浄土に迎え入れられ、その上で新たな国土鎮護の神としての再生復活を期待されたのです。

これが、日の出祭の本質です。

この、葬礼だけでも、御生だけでもない、両方の目的を兼ね備えた祭礼であることが、“日の出祭のルーツは「山伏の集団入峯式」”という言い伝えが生じた背景にあるものと考えられます。そこには、「祭本来の意義は失われ」ても、「今日でも最も重要な例祭」であると自覚し、国土鎮護の神となった祭神が再び怨霊化することなきよう、祭祀と修法を懈怠なく継続するようにとの先人からのメッセージが込められているのです。

【 酉年式年大祭の謎 】

さて、武蔵御嶽神社では、酉年に執り行う日の出祭を「酉年式年大祭」と称して特別視しています。しかしながら、他の年と比べて祭礼の規模や方式に大きく変わるところはありません。しいていえば、前述の通り、この干支だけ本神輿が出御することぐらいです。しかし、これも平成になってからの取り決めです。つまり、酉年に何か特別なことをするという意味ではなくて、酉年には何がなんでも大祭を執り行うという意味と思われます。

武州御嶽の長い歴史を考えれば、特に戦乱の絶えなかった中世に大祭ができなかった年がたびたびあったのかもしれません。応仁の乱(1467)以降江戸時代の中期までの実に220年間、9代の天皇が大嘗祭(新帝即位後の最初の新嘗祭)を行えなかったことを考えれば、決して不思議なことではありません。

しかしながら、不思議なことに、なぜ酉年なのか、明確な理由が分からないのです。

これに対して御岳山の内外で諸説示されていますが、どれもしっくりきません。例えば、ヤマトタケルが亡くなった際に白鳥になって飛んでいったからというものがありますが、ヤマトタケルは御岳山で亡くなったわけではありませんし、そもそも「酉」はニワトリのことですから、それを白鳥と一緒くたにするのはいかがなものかと思います。何よりも縁起にヤマトタケル伝説を取り込んだのは江戸時代からで、神宝の記銘などからそれよりずっと以前から酉年を特別視していた形跡があり、この説は検討にすら値しません。また、御岳山が江戸城からみて酉の方角に位置するからというのもありますが、同様の理由で当たらないと思います。

私は、

祭神の人間としての没年が酉年だから

と推理しています。

すなわち、日々の祭祀と供養と年一度の大祭で追善供養と御生神事を行いつつも、祭神の前世の没年と同じ干支の年は、祭神が前世の宿怨を思い出して再び怨霊化する危険性が特に大きいため、そうならないように必ず大祭を執り行うことを武州御嶽に住まう御師の先祖たちが自らとその子孫に課したものと思われます。

古代、怨霊の祟りは、おもに疫病や自然災害という形で世の人々に災禍をもたらしましたが、中世になるとこれに戦乱が加わります。そのことは、上述した『太平記』の崇徳上皇の怨霊エピソードが如実に物語っています。そこには、南北朝の動乱、すなわち、鎌倉幕府の滅亡から建武の新政の混乱を経て、天皇および朝廷が南北に分裂して相争い、さらには足利尊氏直義兄弟の争いも、すべて大天狗と化した崇徳上皇と魔道に堕ちた高僧たちの仕業であると描かれています。

特に、兄の征夷大将軍足利尊氏と弟の左兵衛督直義の争い―両親を同じくし、あれほど仲の良かった二人が、幕府内で両陣営に分かれて血を血で洗う戦を展開する姿―は、武家ならずとも過去にまったく似た構図の争いがあったことを想起させ、これもまた大天狗の仕業と思わずにはいられなかったに違いありません。

事実、武州御嶽では、弟直義の没年(正平七年1352)と同じ干支の辰年を来年に控えた貞治二年(1363)に五部の大乗経のひとつ華厳経(正式名『大方広法華厳経』)全60巻の刊行を開始しています。

しかし、残念ながら、怨霊化した人物の没年と同じ干支という理由で追善供養や贈位贈官などの復権措置がとられた明確な事例は、ある一件を除いて他には見当たりませんでした。

それについては次回、祭神の正体を明らかにした上で、説明したいと思います。


§12日の出祭―御神幸と大般若経の謎(終わり)

【 付記 】

本稿のメインタイトルである「武州御嶽840年目の真実」の840年目とは、次の酉年である2029年が祭神となった人物の没年から840年目、すなわち15回目の同じ己酉(つちのととり)年にあたることにちなんでいます。


次回予告 §13(最終章)赤糸威大鎧と祭神の謎

本稿は、ホスト独自の知見に基づく個人的な見解です。


#武蔵御嶽神社 #御岳山 #蔵王権現 #金峯山 #日本の神社

この記事を書いたユーザー

不適切な内容を報告する