武州御嶽840年目の真実 §13 祭神の正体と赤糸威大鎧の謎(その1)

2026/4/19(日)

§13 祭神の正体と赤糸威大鎧の謎(その1)<3回予定>


【 大麻止乃豆乃天神(櫛真智命)について 】

これまで12回にわたり、武州御嶽の本来の祭神について、武蔵御嶽神社および御岳山に残るわずかな痕跡を手がかりに、諸先学による論考と、日本の政治史、文化史、郷土史、芸能史、民俗学などの様々な研究成果を参考にしつつ推理を重ねてきました。

そのまとめに入る前に、そもそも武蔵御嶽神社の主祭神櫛真智命(くしまちのみこと)が、武州御嶽の本来の祭神ではないという本稿の大前提について説明しておきます。

江戸時代の文化年間(1804~1818)にまとめられた武州御嶽の通史的な縁起である『御嶽山社頭来由記』(以下『来由記』)によれば、御岳山は、鎌倉時代初期に鎌倉幕府の武将畠山重忠(はたけやましげただ)によって“城”が築かれましたが、兵火(いわゆる畠山重忠の乱)によって一山灰燼に帰しました。そのおよそ30年後の文暦元年(1234)、前摂政九条道家の祈念を奉じるため、四条天皇の勅命によって司職(神主)に任命された大中臣国兼(おおなかとみのくにかね)が来山して、祭祀をこれまでの仏教から神道に改める形で再興しました。その際に、かつて奈良時代の仏教僧行基上人がこの地を訪れ鋳造したという蔵王権現の像を垂迹(仮の姿)として、大口真神と坂本の地主神大麻止乃豆乃天神(おおまとのつのあまつかみ)に神秘一座を加えて三神合一の御嶽大権現という神格を創出したとされています。

しかしながら、武蔵御嶽神社に伝わる3つの縁起(『来由記』を含む)のひとつで、近年真筆であることが証明された、国兼が書き残した縁起『南瞻部州(なんせんぶしゅう)大日本国東海道武蔵国奥院御嶽縁起事』(通称、巻末の年号を取って『建長八年縁起』と呼称)には、建長三年(1251)に宝殿を造営しようと境内を整地していたところ、土中から円銅を掘り出し、それを材料にして金剛蔵王の像を鋳造し、さらに宝殿の前に小堂を建てて不動明王を安置したと記述されている一方で、大麻止乃豆乃天神や大口真神は出て来ません。

もしこの時本当に大麻止乃豆乃天神を祀ったのであれば、神職である国兼がそのことを縁起に書かないはずがありません。

実際には、中世および近世初頭までの武州御嶽はむしろ仏教色の強い山であって、『来由記』が述作される少し前まで、神主浜名氏、社僧世尊寺、御師60家の3者が対等で山を運営していました。ところが、18世紀に神主浜名氏が追放され、次いで世尊寺が廃寺となり、19世紀に入ると御師家が主体となって全山を取り仕切るようになりました。そして、かつて2度にわたって江戸幕府直営で社殿の造営・修復がなされてきましたが、その後財政難に陥った幕府からの助成が見込めなくなると、社殿の修築費用を自前で調達する必要が生じ、勧進の際に由緒や権威の高さを世間にアピールするため、また同じ時期に幕府が『新編武蔵風土記稿』を出版する機会に触れ、御岳山の通史的な縁起をまとめることになりました。そこで、すでに神道化が進んでいた当時の山の状況を国兼中興の鎌倉時代にまでさかのぼってその起源としたのです。

その後の明治維新で、一切の仏教的要素を排して神社神道の立場を明確にした際に、三神合一の神格である御嶽大権現のうち、大麻止乃豆乃天神を、同じく『延喜式神名帳』に記載されている奈良の天香山神社の祭神櫛真智命の旧名が「大麻等乃知神(おおまとのちのかみ)」であるとの注記から、これと同一とみなし、以後、櫛真智命を主祭神としました。また大口真神は主祭神の眷属神として独立させました。

また『来由記』は、大麻止乃豆乃天神のことを“坂本の地主神”、つまり山麓から招来した神であると述べていますが、同じ祭神を祀る神社を他の場所にも創設する場合、分祠といい、新しい神社を新宮(いまみや)とか若宮と称して、大元の神社は元宮として引き続き崇敬されるのが一般的です(例:鶴岡八幡宮に対する元八幡など)。ところが御岳山の場合、山麓周辺に大麻止乃豆乃天神を祀る神社は見当たらず、そもそも“坂本”が何処なのかすら不明なのです。

一般的に、山頂に神社なり寺院がある山の坂本とは、参道下の登拝口周辺を意味しますが、御岳山の場合、現在の表参道(ケーブルカー滝本駅からの参道、北御坂)は江戸時代からのもので、それ以前は南の日の出町大久野から入山し日の出山を経由して御岳山に至るルート(南御坂)が表口でした。つまり、中世と近世で“坂本”といえる場所が異なり、さらにかつては「御嶽九口」といって御岳山の登山道が9本あったことを考慮しますと、9か所の“坂本”が存在し得たことになり、そのどちらにも大麻止乃豆乃天神社に相当する古社は見当たらず、故地も発見されておりません。

そもそも、「大麻止乃豆乃」の表記は万葉仮名で、現代でいうところの読み仮名ですから、『延喜式神名帳』を選修した平安時代中期(10世紀ごろ)には、すでに朝廷および国衙でも正式な漢字表記が分からない、つまり古記録等からリストアップしたものの幣帛を受け取りに来ない=存続が確認できないくらい廃れていた可能性が高いのです。

いつ頃から大麻止乃豆乃天神を御岳山の地主神だと認識し始めたのか分かりませんが、一説には、『来由記』を述作した同じ時期に来山し、武州御嶽の御師に国学を教授した秩父出身の神官で国学者の斎藤義彦の影響ともいわれています。彼は自身の著作*で、『延喜式神名帳』に掲載された武蔵国四十四座の所在地をひとつひとつ比定し、その中で多摩郡八座のひとつである大麻止乃豆乃天神社は御岳山にあるとしました。しかしその根拠は示されていません。

*『武蔵国四十四座社道法命附』(斎藤義彦,1970,埼玉叢書第2新訂増補所収)

いずれにせよ、御岳山山上および山中には地主神が存在しなかったことを『来由記』は示しており、このことは、蔵王権現祭祀の総本山である奈良吉野の金峯山の三大社のひとつで最奥の青根ヶ峰(武州御嶽では甲籠山に相当)に鎮座する金峯神社(祭神金山毘古命、別名金精明神)が地主神として認識され、すでに平安時代に朝廷から正三位の神階を受け、他の二社:吉野水分神社(祭神子守明神、正五位下)、吉野山口神社(祭神勝手明神、正五位下)とは別格であったこととはまるで扱いが違います。

また、山麓(坂本)の神社が山上の寺院の鎮守ないし山の地主神である代表例としては、比叡山延暦寺に対する旧近江国(現滋賀県)坂本の日吉大社がありますが、これは延暦寺の開山当初から、地主神および同寺の鎮守社・守護神として崇められていたことが記録として残っていますし、「ヒエの神」が守る山=「ひえい山」という音韻的なつながりもあります。

そして重要なポイントは、大麻止乃豆乃天神から転じて櫛真智命を主祭神とするプロセスで、“神秘一座”の存在が霧消化してしまったことです。

私としては、当時の御岳山の御師たちが、“神秘一座”の存在を無視したり失念していたとは思えず、坂本の地主神大麻止乃豆乃天神は、むしろこれを秘匿するための方便であったと思えるのです。格式はあるが何処にあるのか分からない神社ならば、他所に迷惑をかける心配もなく、都合がよかったのでしょう。否、そもそも奈良吉野の金峯山を模したこと自体が壮大な演出(カモフラージュ)であったのではないでしょうか。それは、御岳山にも甲籠山にも奈良吉野の金峯神社に相当する地主神が存在しない、あたかも「仏作って魂入れず」的ないびつな山容がそれを物語っています。そして、この秘匿された“神秘一座”こそ、武州御嶽の本来の祭神ではあるまいかと考えるに至ったわけです。


§13 祭神の正体と赤糸威大鎧の謎(つづく)

本稿は、ホスト独自の知見に基づく個人的な見解です。

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