武州御嶽840年目の真実 §13 祭神の正体と赤糸威大鎧の謎(その2)
2026/5/15(金)
§13 祭神の正体と赤糸威大鎧の謎(その2)<3回予定>
【 これまでのまとめ 】
では武州御嶽の本来の祭神とはいったい何モノのか、これまでの投稿からプロファイルしますと、
- 徳川家康は、生前、浄土教を信仰し、自身を西方浄土の教主たる阿弥陀如来の再来と認めていた。しかし、遺言では、江戸城の守護神となるための自身の霊廟を営む場所として、武州御嶽のある江戸の西ではなく、北の日光を指定した。それは、すでに武州御嶽には、自分が神として鎮座することが憚られるような存在が祀られていたからであった。その存在は、神格化された家康の御魂(東照大権現)でも侵すことのできない、東の東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)の軍神や南の鶴岡八幡宮の八幡大菩薩に匹敵するものであった。
- 江戸時代初期、武州御嶽の社殿造替奉行を務めた大久保長安は、全国各地の自分が手掛けた事業所から程近い神社に釣灯籠を奉納した。その多くは長安の出自である金春流猿楽師にゆかりのあるものだったが、2ヶ所だけ一見それとは無関係と思えるものがあった。ひとつは越後国一宮の彌彦神社で、もうひとつが武州御嶽である。しかし、彌彦神社は、ある有名な人物が奉納したと伝わる宝物で知られている。その人物は、金春流猿楽の母体である春日大社に対して政治的な配慮を図り、猿楽の演目にも多く登場する。
- 奈良吉野の金峯山は奈良時代以降「金峯山浄土」として人々から崇められていた。東国の金峯山である武州御嶽に畠山重忠が“城”を築いたとされるが、重忠が築いたのは軍事施設の城ではなく、奥津城、すなわち墓であったと推測される。つまり、重忠は、ある人物の鎮魂・供養のために武州御嶽に来山し、その人物の霊廟を営み、その人物の形見として赤糸威大鎧を奉納したものと考えられる。その人物こそ、武州御嶽の本来の祭神である。
- 故人の霊魂が最も強く宿る形見は衣服であるという。故人が武士であれば甲冑ということになる。ある武士が死後神格化された場合、その人物が生前着用していた甲冑は、最も強力な依り代、すなわち御神体といえる。そして、赤糸威大鎧がその祭神が宿る最強の御神体であれば、朝廷最大の実力者であった九条道家が、あらゆる神仏が勧請されていた京都ではなく、リスクを冒してわざわざ武家が支配する関東、しかも執権北条氏が国守を務める武蔵国に大中臣国兼を派遣したこと、また後年、御神体が蒙古襲来時に怨敵退散の祈祷のために鎌倉に運び出されたことも説明がつく。すなわち、武州御嶽の本来の祭神は武士である。
- 畠山重忠滅亡後、武州御嶽を復興するために大中臣国兼を派遣した九条道家は、息子および孫が鎌倉幕府の将軍となったものの、将軍を傀儡として幕府権力を独占していた執権北条氏に反感を抱き、密かに北条氏打倒を画策していて、国兼もこれにあわせて終始反幕府的な行動をとっていた。したがって、武州御嶽の本来の祭神も、生前、京都寄り(反幕府的)な存在であったと考えられる。
- 赤糸威大鎧をはじめとする武州御嶽(現、武蔵御嶽神社)が所蔵する神宝は圧倒的に武具が多い。しかも、ひとつひとつが非常に高度な技術が用いられており、さらに呪術性の極めて濃い細工が施されている。そのことは、その祭神が、単に武士であったというだけではなく、死してもなお、京方、鎌倉方双方から畏れられ、さらにその力が利用されていたことを暗示する。
- これらの神宝は祭具として、武州御嶽の両祭(日の出祭と流鏑馬祭)に出御、供奉される。武州御嶽の流鏑馬祭は日没を待って開始される。中世、日没時刻は「逢魔が時」といって冥界の扉が開き魑魅魍魎がこの世に解き放たれると考えられていた。かつては、神宝のひとつである円文螺鈿鏡鞍を装着した神馬が祭神の乗馬として出御していたと考えられる。そして円文は冥銭(俗にいう“三途の川の渡し賃”)を表すことから、祭神もまた冥界の住人であると考えられる。
- 玉垣内の摂社のひとつに巨福社がある。それは、かつてこの小社の鎮座する小山が巨福山と称されていたことによる。これは、同じ山号をもつ唯一の寺院である鎌倉の建長寺に因んだものと考えられる。建長寺は、鎌倉幕府五代執権北条時頼による創建の我が国初の禅宗寺院である。禅宗は本来釈迦如来を本尊とするが、同寺の本尊は地蔵菩薩である。地蔵菩薩は、生前殺戮に明け暮れ死して修羅道に堕ちた者、また非業の死を遂げた衆生を救済する仏として、中世は多くの武士に崇められた。そして、冥銭は地蔵信仰から生まれたものである。
- 武州御嶽におけるヤマトタケルの甲冑埋納伝説は記紀にはないエピソードであり、さらに関東の山岳地帯に見られるヤマトタケル伝説は修験者が流布したものとされている。修験者がヤマトタケル伝説を流布した背景には、修験道が反骨の宗教、すなわち反体制派であったことにある。その伝説には、実力者たるゆえに危険視され、排除され、帰還を望みながらも叶わず没落または横死した若き勇者という、一般的なヤマトタケルの英雄像とは異なる側面がうかがわれ、それは武州御嶽の本来の祭神の生前の境遇が仮託されたものと考えられる。
- 現在、大口真神の愛称として親しまれているおいぬ様のお札は「御神狗」というが、御岳山の奥の院(甲籠山)には、中世以来、小桜坊という名の大天狗が祀られていた。実は、武州御嶽における「狗」の字がつく霊的存在は、大口真神より天狗の方が古い。そして古代および中世、有能な人物が非業の死を遂げた場合、その魂は怨霊化し、さらに怨霊の力が極めて強い場合、大天狗に転生すると考えられていた。
- 戦国時代、青梅を中心に西多摩地域を治めていた国衆三田氏は、武州御嶽の本殿を修築し、その竣工供養の際に越前国の平泉寺から僧侶を招いた。平泉寺は、越後国一宮の彌彦神社に宝物を奉納した同じ人物とのゆかりがあり、かつ越前国は応仁の乱で京都および畿内が荒廃していた際に、金春流をはじめとする猿楽師を迎え入れるなどの交流があった。
- 江戸時代後期まで、武州御嶽は神主と社僧が一山を支配しており、神主が本殿にて中臣祓を、社僧世尊寺が拝殿にて不動明王の護摩供を祭神に捧げることを日課としていた。不動明王の護摩供、すなわち不動法は、特に怨霊を調伏する際に行われた修法であった。また、世尊寺は大般若経を所蔵し、これを度々修理したという記録が残る。大般若経も、中世以来、怨霊調伏のために読誦された経典であった。
- 武蔵御嶽神社の例大祭「日の出祭」は、その起源が山伏の入峯式とされている。その理由は、形や様式ではなく、「死と再生の儀式」という目的そのものにあった。すなわち、日の出祭は、怨霊化して冥界をさまよう祭神を仏教の力で一旦成仏させ、御生の神事で復活を期すという2つの儀式が結合したものであったのである。そのことは、祭りの中心である御神幸に、かつて大般若経が供奉されていたこと、神輿が輪宝を無数にあしらった瓔珞で飾られていることに表れている。輪宝は、古代インドの戦車をモチーフとし、煩悩や執着心を破壊するとともに、輪廻転生を促す法具であった。そして、武州御嶽は、明治以前までは、修験道の守護神である蔵王権現を主尊とする霊山であったと一般的に語られているが、御神幸の際、蔵王権現の化身とされる「隠岐院」と、密教修法の本尊不動明王の化身とされる「倶利伽羅」という二振りの神宝大太刀が神輿を護衛する形で供奉していたことは、これら両尊より上位の尊格が祭神として存在し、それがこれら両尊を脇侍に従えていたことを表しているのである。
【 酉年式年大祭の謎 】
武蔵御嶽神社の例大祭「日の出祭」は、特に12年に一度の酉年は、「酉年式年大祭」と称して特別視されています。ところが、不思議なことに、なぜ酉年なのか、いつからそうなのか分かっていません。しかしこの謎も、武州御嶽の本来の祭神が、これから紹介する人物であればあっさり解決します。
武州御嶽の縁起を当時の政治状況を踏まえながら丁寧に読むと、鎌倉時代の半ばに大きな転機を迎えたことが分かります。それは、九条道家が派遣した大中臣国兼による復興に示されるように、これまで京都寄り(反幕府方)であったものが、鎌倉幕府五代執権の北条時頼が創建した建長寺と同じ山号「巨福山」の出現に象徴されるように、鎌倉方に転向したことです。
四代将軍九条頼経とその側近たちは、幕府権力を独占する執権北条氏に対してクーデターを目論みました。しかし、北条時頼は、これを未然に防ぎ、頼経を京都に送還し、さらに京都の朝廷に圧力をかけ、頼経の父九条道家に対し、謀略に関与していたとして失脚させました(宮騒動)。さらに翌年、頼経の側近であった最大の御家人三浦氏を滅ぼして(宝治合戦)、鎌倉幕府における北条氏の専制体制を確立しました。しかしその一方で、時頼は神仏に対する崇敬が極めて篤く、さらに源頼朝の挙兵以来、数々の権力闘争で宿敵はもちろんのこと、かつての同朋までも滅ぼしてきた先祖の罪業を一身に背負い、亡き者たちの鎮魂と供養に意を注いだのです。
時頼は、三浦氏を滅ぼした直後の評定で、神社仏寺のことを話し合いましたが、このタイミングで武州御嶽の直轄化が図られたと考えられます。そして、鎌倉幕府の公式な歴史書である『吾妻鏡』には、その翌年に次のような記事があります。
「宝治二年(1248)二月小五日癸未。永福寺之堂修理の事、去る寛元二年四月、其の沙汰に及ぶと雖も、日来頗る懈緩也。しかるに左親衛、明年廿七歳の御慎み也。当寺を興行さるべしの由、霊夢の告有るによって、殊に思し召し立つと云々。当寺は、右大将軍、文治五年伊予守義顕を討ち取り、又奥州へ入り藤原泰衡を征伐す。鎌倉へ帰りしめ給ふの後、陸奥出羽両国知行せしべきの由、勅裁を蒙むらる。是、泰衡管領の跡ためによって也。しかるに今、関東長久の遠慮を廻らし給ふのあまり、怨霊をなぐさめんと欲す。義顕といひ泰衡といひ、さしたる朝敵に非ず。只私の宿意をもって誅亡の故也。」
来年(宝治三年)は、左親衛(北条時頼のこと)の慎みの年、すなわち厄年にあたるので、永福寺(ようふくじ)の興行(修理の意味)を急がせた、というものです。それは、永福寺は、源頼朝の時代に奥州藤原氏との戦いで犠牲になった人々の霊を慰めるために建立したものですが、今、あらためて考えると、義顕(源義経のこと)と藤原泰衡が誅殺されたのは、朝敵ではなく、“私の宿意”であった、というのです。
つまり、鎌倉幕府(実質、北条時頼)は、源義経が奥州で殺されたのは、源頼朝および北条氏の私的な都合であったことを正式に認めたのです。それ故、怨霊化した義経の御魂を、あらためて供養することで、幕府の長久を図ろうとしたわけです。
宝治三年は西暦1249年で、義経が殺された文治五年(1189)からちょうど60年、つまり同じ干支「己酉」なのです。
この記事の根底にある思想は、怨霊と化した死者の御魂は、同じ干支の年に再び災厄をもたらす(祟る)危険性があるため、より篤い功徳を積んで回向する必要がある、ということです。
そして、これまでのまとめにあてはまる唯一の人物、すなわち、武州御嶽の本来の祭神は、
怨霊化した源義経です。
次回、赤糸威大鎧が義経所用の鎧であることを証明します。
§13 祭神の正体と赤糸威大鎧の謎(つづく)