「おくの細道」はここだった!!

2021/5/8(土)

5月8日、芭蕉は仙臺を旅立つ。


曽良日記には

『仙臺を立ち、十符の菅(とうのすげ)・壺碑を見る』

と書かれています。


私も仙台出身で多賀城にある大学に通いましたから

このあたりのことはわかるかと思っていましたが


十符の菅・壺碑のことはさっぱり。


芭蕉は今の仙台市宮城野区岩切のあたりを歩きます。





七北田川にかかる今市橋を渡り、西の方に六、七丁余り

あるいて「十符の菅」の場所(岩切新田)に至ります。


『おくの細道の山際に十符の菅有』


と芭蕉は書いています。


まず「十符の菅」って何です? ・・・ですよね。

調べてみると以下のように出ていました。


『「十符の菅」は、中世以来

「みちのくの 十符の菅薦 七符には

  君を寝させて 三符に我が寝む」

 等と詠まれ、

その菅は網目が十筋の菅薦の材料として使用される良質

なものといわれ、陸奥の歌枕として知られていた。


第四代藩主伊達綱村がこの地を訪れ、「十符の菅」の名所

が荒廃しないよう菅守を設け保護し栽培することを

家臣及び村中の者に命じた。』


歌枕にも読まれるほど、良質な菅材がこの地域で作られて

いたのですね。


「奥の細道」は芭蕉の紀行文のタイトルですが、実はその

由来は、この「十符の菅」が取れる「田の畔」のこととも

あるいは、今市橋から多賀城政庁に向かう道のこととも

いわれています。


こんな生まれ育った地に「奥の細道」の由来の地があったとは

驚きです。


芭蕉は、その後、多賀城碑に向かいます。

今では多賀城碑と呼ばれていますがこれが「壺碑」です。


芭蕉が訪れた当時は、雨風から守る覆堂もなく露天の石碑です。





この石碑は、坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)征伐の時、

弓の弭(はず)で日本の中央であることを書きつけたと言われるものです。








西行もこの多賀城の壷の碑を訪れて歌を詠んでいます。

『陸奥の奥ゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑そとの浜風』


残念ながら「壷の碑」が土中から発見されたのは江戸時代初めで

西行は実物は見ていないのです。

昔から多くの人々がこの碑の存在を信じて歌に詠んできています。


西行を慕う芭蕉がこの地を訪れないわけはないですね。

学生時代に行っておけばよかったと思います。歩いて2㎞ほどでした。

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