五月雨の降りのこしてや光堂
2021/5/13(木)
松島を出発し、石巻・登米そして一関に5月12日に到着
一関にはひどい雨の中での到着であったらしく、平泉へは
翌日5月13日の訪問となる。
往復の時間としては6時間ほどだったようです。
平泉は平安時代、奥州藤原氏が治めた地。
遠く京にも並ぶか、それ以上の文化が花開く地でもありました。
藤原清衡、基衡、秀衡の三代が築いた平泉。
芭蕉も楽しみにしていたようです。
『三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。
秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。』
三代の栄耀とは、清衡、基衡、秀衡の三代が築いた平泉のこと
を指しています。
芭蕉が訪れた時には、当時の栄耀栄華からはかなり離れて
いたことだと思います。
芭蕉は高館の義経堂を訪れます。頼朝から逃げてきた義経
を秀衡が熱くもてなし、ここに義経は居住慕いました。
しかし頼朝の圧力に屈し秀衡の後を継いだ泰衡は義経を
この地で打ち取ってしまいます。
その泰衡も、頼朝との奥州合戦により破れ、百年続いた奥州藤原氏
平和で絢爛豪華な平泉文化も終焉を迎えたのだと思います。
ちなみに、鎌倉幕府の将軍となった頼朝でしたが、源氏将軍は
頼家・実朝と続きますが、頼家の子で実朝の猶子となっていた
公暁に頼家は暗殺され、源氏将軍も3代で終わることになりました。
何かの因縁かと感じざるを得ませんが・・・
芭蕉は、ここで杜甫の詩を引用して奥の細道のなかで
『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と述べ
『夏草や兵どもが夢の跡』
と有名な句を詠んでいます。
さらに中尊寺の本坊を訪れて、その後金色堂を訪ねています。
金色堂の須弥壇下には、初代清衡、二代基衡、三代秀衡、そして
四代泰衡の亡骸が収められています。
(泰衡は首級が納められています)
正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令で金色堂を外側から
すっぽり包む形で覆堂が建設されています。
本来ならば華麗な飾りも散逸し、堂宇も雨風で朽ち果てるべき
ところを、惟康親王は思うところがあって覆堂を設けたのだと
思われます。
芭蕉もこの覆堂越しに金色堂を参詣したと思われます。
『五月雨の降のこしてや光堂』
と、この金色堂を詠っています。この句も有名ですね。
近くには庭園や大泉が池で有名な毛越寺もありますが、
芭蕉はここには寄らずに一関に戻ったようです。
芭蕉が慕う西行も平泉には二度訪れています。
1度目20代後半の頃と推測されています。
旅の目的は、100年以上前の歌人・能因法師が訪れたみちのくの歌枕
を実際に巡ることでした。
このとき、奥州藤原氏は基衡の時代です。
2度目は文治2年(1186)、西行69歳の頃、東大寺再建のための
砂金勧請に秀衡を訪ねたときでした。
西行はその目的を果たし、砂金450両が東大寺に送られました。
その後、義経をかくまったことにより鎌倉と平泉の対立すると
送金も途絶えたようです。
奥州藤原氏が滅亡した翌年(1190年)西行は73年の生涯を閉じました。