【コラム】人とつながること

2021/4/20(火)

最近、地方に引っ越して地域コミュニティとの関わりを持つようになって、感じたことがある。

それは、今の日本の世の中は、一人で必要最低限の生活を始められるようによく設計されているということ。

知らない土地に引っ越しても、普通に戸籍があって、義務教育を受けて読み書きができ、筆記や点字含む日本語によるコミュニケーションが取れる人なら、いろいろな書類の提出やインフラの契約手続きなどさほど困難を感じることなくひととおり一人でできてしまうと思う。

で、書類の提出や契約が終わったら、役所の職員さんや電気屋さん、水道屋さん、ガス屋さんの仕事は終わるので、「さあ、ここからは本当にあなた一人で楽しい生活を作りなさいよ!」となる。

別に今までだって日本国内で何度も引っ越しは経験しているのに、今回初めてそのことに気が付いたのは驚きだった。


家があり、温かいお湯が出て、夜には明かりを使える。

そういう必要最低限の生活は、蓄えがあって成人なら、一人で始められるのだ。

そしてたぶん、ある程度継続的な仕事があったら、一人でこの生活を維持することもできる。

こういう世の中になっていることはけっこうすごいのではないか。


昔、アフリカでボランティアをしていたとき、なかなかこうはいかなかった。

断水したとき、どこから飲み水を汲んだらいいか役所の人は教えてくれないので隣人に聞いたし、

ソファが欲しかったけどそんな店がなかったので大工を紹介してもらわないといけなかったし、

そのソファも、見積書をもらったけどそれが妥当な金額なのかどうか同僚何人かに聞いて回った。

人を訪問する用事があり、紙の地図を見たけど、それは10年前のだからと言われて結局その近所に住んでいるという人が目的地まで連れてってくれることになった。

驚いたのは、上に書いたようなことは私が外国人だから起きたことではなく、同じ国の違う地域から引っ越してきた人も同じような手順を踏んで徐々に土地に慣れていくことだった。

役所が把握していない、かつ、文書や記録に残っていない、けど、最低限の生活に必要な情報が市民の頭の中にたくさんあった。

必然的に隣近所の人と話をせざるを得なかったし、言葉の壁とか年齢とか役職とか関係なく、「その人は信用できるかどうか」の嗅覚みたいなものが自然と身に付いた。


アフリカの国と比較するのは飛躍しすぎかもしれないけど、他人に聞かなくても新しい土地で最低限の生活を始められるということは、行政組織やインフラの供給が安定していて、基礎教育が行き届いていることの証明かもしれないなあと思っている。


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ここで「つながり」の話に入りたい。


2013年、それこそ私がアフリカで停電やネズミの出現や下痢に悩まされていたとき、大阪で28歳の母親と3歳の子どもが餓死したというニュースを目にした。

めちゃくちゃ驚いて、いつまた停電するかも分からない中で必死にリンクをたどりまくってそのニュースの詳細を追った。

このニュースについて詳しくは書かないけれど、先進国である日本で、この21世紀に「餓死」というのがとにかくショックだった。


つまるところ、問題は「助けてと言えなかったこと」にあるように私には思えた。

この女性は、子どもをかかえて一人で生活を始めるところまではできた。

でもそこから、いろいろな状況が重なって、少しずつチェックリストを埋められなくなっていった。

必要最低限の生活があるとき崩れてしまった。

こんなことがあるなんて、と悲しくて悲しかった。


なんで誰もこうなるまで気づかなかったのか。

どうして誰にも「助けて」と言えなかったのか。

この親子だけじゃない。

日本には1億2,000万人も人が住んでいるのに、自分が一人ぼっちだと感じている人はたくさんいる。

そんなことを考えたり調べたりする中で、一人でできる範囲だけで生活を完結させていてはだめかもしれないと思うようになった。


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地方に引っ越してきて、基本的には一人で生活は始められた。

荷物の手配も電気とガスの契約も、自分で選択して自分で契約書にサインをして、お金を払った分の働きをそれぞれの業者さんがしてくれた。

でもそれ以外の最低限度を超える範囲の生活のゆたかさみたいなものは、契約書では提供されない。

たとえば、こっちではいろんな柑橘があるのだけど、その美味しい食べ方を教えてくれる農家さんとか、

船の出発時間まで手持無沙汰にしていると、「うちに上がって待ってれば」って言ってくれる近所の人とか、

私が運転の練習したいんだよねというと「私の車使っていいよ」と言って島一周のノロノロ運転に付き合ってくれる人ととか、

そういう、「なくてもいいコミュニケーション」が徐々に「なくてはならないコミュニケーション」になってくる。


困ったら助けてもらおう、この間のお礼にこれを持っていこう、こうしたら喜んでくれるかな。

そういうふうに思えることが、「人とつながる」ということなのではないか。

そういうふうに思える人がいることで、私たちは知らず知らず救われているのではないか。

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