【コラム】私と3.11

2021/3/11(木)

10年前の今日、私は卒業を控えた大学4年生で、地震が起きた時間は、外出先から自宅のある秋田駅に帰るために友達と一緒に電車に乗っているところだった。

走っている電車の中では揺れを感じられず、急停車してから、なんか揺れてるっぽいと分かる程度。

しばらくして、東北地方を震源とする大きい地震が起こったためしばらく停止します、というようなアナウンスが入った。

正直その瞬間はあまり動揺していなかったけど、周りの乗客の中にワンセグでテレビを見だす人がいて、ええ!とかうそー!とかの声が徐々に聞こえてきて、だんだん心がざわついてきた。

一応宮城の実家に電話をかけてみたけど、繋がらなかった。


何回目かのアナウンスで、終点の秋田駅まであと数百メートルというところで止まってしまったこの電車が、今日はもう動かないことが告げられた。

車内がざわつく中、非常ドアが開き、雪がちらついてるのが見えた。

地上にはしごがかけられて、車掌さんの指示で車内から線路に出た。

大声で話す人もいなく、みんな黙って線路に沿って秋田駅までの道を静かに歩いた。

私は少しずつきょろきょろしながら、楳図かずおの『漂流教室』みたいだな、と思った。


当時駅裏のアパートに住んでいたのだけど、家に着いたら電気もガスも水道も止まっていた。

もう一度実家に電話をかけたけど繋がらなかった。

一緒にいた友達は自宅に帰れなくなってしまったので、とりあえず状況が良くなるまでうちに泊まりなよとかなんとか、そういう話をしながらも実家のことが気がかりでならなかった。

さて、今夜からどうしようと思って、とりあえず水の捜索を始めた。

節約のためにお風呂に沈めて使っていたペットボトル3本分の水と、やかんに半分くらい残っていた水を見つけて、少しほっとした。

夜になって、着信を残していた東京に住んでいた弟から折り返しがあり、実家の家族と連絡が取れたと聞いた。

どうやら東北内だと電話が繋がらなくて、東京と宮城だと繋がりやすかったらしい。なるほどと思った。

駅ビルに行ってみると、イベントスペースに灯油ストーブが数台と段ボール箱に入った毛布が無造作に置かれていて、自宅に帰れなくなった人たちでごった返していた。

制服を着たビルの警備員だか駅員だかの人たちが何人も走り回って、近くのコンビニの情報だとか電車の運休のお知らせとかの張り紙をあちこちに貼っているのが見えた。

地震が起きて数時間のあいだのことはこんな感じで思い出せるのだけど、それから数日間どう過ごしていたかはあまり覚えていない。

卒業式は中止になり、当時仲間と企画していたドキュメンタリー映画の自主上映会も中止にしたのでその後処理をなんとか進めていたと思う。


4月になって、仲間のつてで連絡のあった石巻の渡波地区に通うようになった。

当時バイトしていたカフェを拠点に冬服や保存食のカンパを始めて、車で相乗りでそれらの物資を渡波の避難所に届けては、ガレキ撤去したり現地の様子を見て回ったりする日々が始まった。

メーリングリストを新しく作って、仲間うちで被災地に行くスケジュールやメンバー、役割の調整を始めた。

避難所の取りまとめをしていた神戸の団体の方にもメーリングリストに入ってもらって、細かい交通情報とか避難所内の様子を教えてもらった。

阪神淡路大震災を経験していたプロボランティアのような人が何人もいて、そういう人が避難所の運営や情報整理に大活躍していた。

6月くらいになると、外国人や大きなバスで遠方からやってくるボランティアの人たちも見るようになった。

ある日活動で一緒になったパキスタン人のおじさん2人組が、めちゃくちゃおいしい現地のカレーをふるまっていて、避難所にいた人たちが感動していたのを覚えている。

その頃になると避難している方から、レクリエーションやくつろげる時間が欲しいという声が出るようになっていたので、私たちはカフェで取り扱っていたコーヒーを持ち運びで振舞えるように、秋田市内の焙煎所から業務用のコーヒーメーカーを借りてきて避難所内でホットコーヒーを配ったり、仲間のつながりで集めたバドミントンやらフリスビーやらを持ちこんで子どもたちと一緒に遊んだりする活動を始めた。

コーヒーを配っている人たちがいる、と認識してもらうようになって、避難している方と世間話をしたり思い出の品を見せてもらったりすることもあった。

毎日毎日、テレビでは死亡者と行方不明者の数字が大きくなっていった。

中学生のころ、部活の大会なんかで何度か行った学校が遺体安置所になったと知った。

高校のとき、野球部がいつもランニングしてた閖上の砂浜が真っ黒になっていた。

夏が近づいて、私たちはどうやって美味しいアイスコーヒーを避難所で出せるかを考え始めた。

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あの時のことをこんなふうに文字にしたことはなくて、いつも頭の中で映像で断片的に思い出します。

思い出すとき、あの時期に思ったり考えたりしたことの何が一番今も変わらず残っているかな、と考えます。

10年のあいだに街も社会も自分も、変わったところもあればそうでないところもあり。

まさか東京のIT企業で働くことになるとは夢にも思ってなかったし、あの時は中止になった母校の卒業式がオンラインで行われるようになるとは。


自分ができることの何かが誰かの役に立ったら良いな。

誰もが孤立しないで、誰かと感情を共有できる状態が保てる世の中になったらいいな。

多様な他者に対して優しく寛容な社会づくりに、自分の時間を使えたらいいな。

避難所でコーヒーを配っていたあの時に芽生えたこういう思いは、今も変わらず、心のどこかにあるし、今TABICAで働いている動機の一つになっている気がします。

5年前に東京に出て来てから知り合った人たちと、あの日どうしてた?という話をすることがあります。

私が過ごした日々との違いにびっくりすることもあるし、その度に、被災者の方々と私との間にもそれ以上の差があるのだと思いなおします。

あの頃と少し違うのは、今は全国、全世界どこにいても同じ脅威に直面しているので、共感や想像という意味では震災の記憶よりは差の少ない手触りをみんなが等しく感じているかもしれません。


(ここまで書いたはいいけどどうやって終わろう、、なにかもっと書いておきたいことがある気がするけど、、とりあえず公開ボタン押しますね)


追記!

書いておきたかったこと、思い出しました。

今日こういうノートを出そうと思ったのは、震災の日のことをどのくらいまだ覚えているか確認する時間を作りたかったのと、今やっていることがどんなふうにあの時思った「社会づくり」ってやつに繋がっているか確認したかったからでした。

「他者に対して優しく」というのは耳障りは良いけど、そもそも多様な他者と会話した経験や関わり合いを持っていないといろんな人に共感したり感情を想像することってなかなか難しいと思うんです。

「いろんな人と出会うと、次出会うまた新しい人にもっと優しくなれる」という持論を持っているのですが、こんなにいろんな人と繋がれるサービスというだけでTABICAは他者に優しくなれる要素を多分に含んでいると思います。

べつに私が作ったサービスじゃないのに自分に都合よくTABICAを解釈してしまってますが笑、とにかく、「そうだ、そういう論理で私は、TABICAが盛り上がれば自分がいいなと思う社会が作れると思っているんだった」と改めて感じています。

皆さんにとっては、TABICAはどんなサービスなのかな。どう解釈してもらっても嬉しいですが、応援したいと思っていただけるサービスであるといいなと思います。

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