なぜ、今、京成立石?
2020/10/12(月)
さて、前回のノートで、「なぜ、第一回目のテーマが京成立石なのか?」
と書きましたが、それについて書いてみたいと思います。
もともと父がコーヒー好きで、小学生の頃から家族で食べ歩きや街歩きのため、たまに下町に来ていました。
母は下町で生まれ育っています。
また、私は東横線の新丸子界隈で育ちました。
中原街道が通る古い街で、周辺に商店が立ち並び、昔は多摩川の渡しに伴って青線地帯があったそうです。
街全体にどこかしら、微妙に艶っぽい雰囲気が残っていました。
そのせいなのか、新丸子にはいくつか、妙に大人の雰囲気の喫茶店がありました。
私が子どもだったからそう感じたのかもしれないし、当時の喫茶店というのはみなそんな雰囲気だったのかもしれません。
父に連れられて、そうした近所の喫茶店にもよく行きました。
そうして、自分のいる場違い感や、大人向け過ぎてハラハラする感じを抱きつつ、パフェやクリームソーダの甘さに酔いしれていました。
いま新丸子を訪ねても、その名残はほとんど見つからないと思いますが、
私個人としては、なんとなく影のようにその雰囲気が今も漂っているように感じられます。
おそらく「青線(赤線)地帯」×「商店街」×「喫茶店」という組み合わせに、何かスイッチが入るのだと思います。
陰影は生の鮮やかさを際立たせますし、無常観を醸し出します。
そうしたデカダンスと、ワビサビがあるかどうか。
京成立石は、ドンピシャの街なのです。
戦時中からすでに女性街として営業は開始されていましたが、終戦直後からは進駐軍向けの慰安施設に指定されました。
その後、赤線区域へと移行します。
そのような経緯から周囲には飲み屋街が林立し、現在はせんべろの聖地として有名です。
商店街自体は戦後の闇市が元だそうですが、私がこの立石商店街(正式名称は立石仲見世共盛会)を知ったのは、「間宮兄弟」という映画ででした。
冒頭で、間宮兄弟(佐々木蔵之介と塚地武雅)が、仕事の帰りにこの商店街を遊びながら歩いていたのです。
近年東京ではほとんど見られない、しっかりした造りのアーケード街だったので、地方だと信じて検索したら、なんと都内でした。
びっくりして通い始めて、今日に至ります。
最初に来たのは確か2007年とか2008年とか、そのくらいだったと思いますが、その時点でかなりのシャッター街でした。
前後して、「赤線跡を歩く」(木村聡著 ちくま文庫)で、近辺が赤線の跡地だったことを知ります。
また、前の仕事でお世話になった方が、かつてこの近くに職場があったらしく、人気のお店などを少し教えてくれました。
TV東京の「アド街ック天国」では「呑兵衛のテーマパーク」とか言われていましたが、私的には街全体が「昭和のテーマパーク」に思えます。
見事なほど、昭和な建築物が残っています。
少し都心寄りにある「京成曳舟駅」周辺も密集感があり、かなり昭和な街ですが、東日本大震災後に道路が拡幅されて家々も改築されたため、以前よりはだいぶ新しい建物が増えました。
一方で京成立石より東に行くと、やや街の区画が広々してきます。
それで個人的には立石が、昭和の建築の密集地を見られる最後の砦のように思えます。
そしてなぜ、このタイミングで立石がテーマなのか。
私は都内某所のレストランバーで、お客様の姿をスケッチさせていただいています。
いわゆる流しのスケッチ屋です。
9月某日においでいただいたお客様が、たまたま立石にお住まいで、駅前の密集地が9月いっぱいで取り壊される、というお話をされました。
立石駅前の区画整理はかなり前から計画されていて、取り壊しの日がなんども決められては、そのたびに反対等で延期されていました。
一度、反対のネット署名にも参加したことがあります。
その限界が9月末ということでした。
なら、この機会に絶対行かなくちゃ!
が、単純な理由です。
体験開催の前日でしたが、紹介する店が閉店しちゃってないか?等
確認のためでした。
果たして、駅北側の一部はすでに取り壊されていましたが
立石仲見世や目的の店はまだ営業中でした。
のんべ横丁は風前の灯感でしたけど・・(汗)
実際のところ、どの辺りがなくなってしまうのかよくわかりませんが、毎回、「まだここはあった!」と確認するために通っている感じです。
本当、いつなくなるかはわからないですからね・・
特に、飲食店に軋轢が来るこうした状況下では。
気になった店は、先延ばしせず、すぐに入らないとですね。