【活動記録】 " 教えられないもの "

2020/8/25(火)






https://note.com/doubleespresso/n/n8a36a787421c



こんにちは。


今日は、開催した《バリスタとめぐる「コーヒーショップ分解」ツアー》の活動記録として、経緯と考えたことを残します。



目次
  • " BARISTA " は、ただの役割
  • 曖昧な定義の ” 投げられたまま ” という問題
  • 解消されなかった課題
  • 個人の「持続可能性」


  • " BARISTA " は、ただの役割



    私は現在、フリーのバリスタとして活動しているのですが

    決まったお店のカウンターには立っていないので、BAR + ISTA

    (バーの人、バーの専門家)という語源に戻ると、バリスタとはいえないかもしれません。

    もともと自分でバリスタです、と言うことに抵抗があり、ずっと

    「コーヒー屋です」

    と名乗っていたのですが


    「バリスタさんですか?」と返されることが多く、周囲の認知に合わせるためにバリスタという言葉を使い始めました。


    これから個人で活動していくには知ってもらうことが必要で、そのために致しかたない、という感じでした。


    (バリスタの活動はBARISTA-NOTE にまとめています)


    ではなぜ、その言葉に抵抗があったか?


    ” バリスタ ”ときいて、みなさんはどんな想像をされるでしょうか?


    シュッとした感じの、ピカピカのステンレスのカウンターに立って重厚なエスプレッソマシン を扱う皮のエプロンのお兄さん?


    それとも緑のエプロンでカップにメッセージを書いてくれるお姉さん?


    私が想像するバリスタはそのどちらでもなく、ある役割を担うひとです。




    役割しばりなので、

    たとえば飾らない着こなしで、腕のタトゥーやおおきなピアスが似合っていたり、顔の下半分を【覆う】ような髭をたくわえていたり、年齢も性別も性格もバラバラです。


    その役割とは

    訪れたひとに対しコーヒーやその文化、トレンドのあれこれを伝えること。

    それができるフレンドリーなひとびとが私の思うバリスタです。

    日本でバリスタと名乗るのに抵抗があったのは、まだまだこのイメージが共有できないだろうと考えていたからです。


    原点となるコーヒーショップ体験がオーストラリアだったことは、こちらの記事に書いていますが、我ながら原体験の強さが見てとれます。






    フレンドリーに話す、と書きましたが、ではこれはどういうことか?


    これは、常連客だけに向けられた馴れ馴れしさでも、無差別に浴びせられるどこか媚びたような笑顔でもなく、


    必要なことをわかってフラットに接する態度、というふうに捉えています。来る人に自然体で接し、お客さんに気持ちよく帰ってもらうまでがそのひとたちの仕事です。


    スタッフという立場ながら、それ以前にひととして堂々としていること。


    そして、ひらかれていること。(open-minded)


    open mind は


    偏見がなく公平な、開放されていること、などと訳されますが

    ここではもっとニュアンスとして、そのまま、心が開かれていること。


    という感じです。もっと言えば、閉じていないこと。


    最近、コーヒーショップの話を他業種の方がされていて印象的だったのが、

    「閉鎖的な雰囲気がもったいない」

    ということでした。


    その方はその方の関わる業界にも同じ閉塞感をお持ちで、その文脈でコーヒーショップの話を出していたのですが、他業種からもそう見えているのか、と はっきりわかった瞬間でした。


    コミュニケーションを取ろうとしない姿勢とでもいうのか、印象が

    お客さんに向けて【ひらかれていない】んです。


    まちのコーヒーショップは場そのものが開かれているので、人間が閉じた態度だと、来る人とのミスマッチが起きてしまいます。


    さらに【必要なことがわかって】という部分ですが、必要なこととは何か?


    これはお客さんがそのとき求めているもの、そしてショップという場が円滑に、しかしその場らしい空気を保ったまま運営されるために必要なこと。


    すべて私個人の理解と解釈ですが、そんなふうに位置付けています。

    言葉の説明が長くなってしまいましたが、


    意味づけを合わせることは歩み寄りの事前準備として必須の作業です。

    (お互い違う意味づけをもったまま場が進行していくとアンジャッシュのコントみたいになってしまいます。笑)



    では、コーヒーショップという、まちにひらかれた BAR のある場所に

    フレンドリーな ISTA がいたら。

    そこに来る人のショップ体験はどのように変わるでしょうか?




    曖昧な定義の ” 投げられたまま ” という問題

    公開しているイベントページから、「コーヒーショップ分解」の意図の説明を引用します。


    自分の仕事に活かせる部分を探しによくコーヒーショップにいきます。
    いろいろなお店に行きますが、いちバリスタとして長年課題と感じているものに、お店側とお客さんの《コミュニケーションエラー》があります。

    お店側の想いが伝わっていない、お客さんの希望を汲んでいない、結果双方いい体験になっていない。

    難しい用語、それなのに質問をしにくい空気、初めてのお客さんへのケアの薄さ、価値が伝わっていないから「高い」と感じてしまいがちな価格。

    そういった体験を作り出してしまうコミュニケーションのミスです。

    そこで、イチオシのコーヒーショップをいっしょに巡り、コーヒーやコーヒーショップ、各国のコーヒー文化の違いからトレンドまで、参加者さんのご質問にお答えしながらいっしょにコーヒーを飲みましょうという企画です。


    自分が店舗で働いていた頃、同僚とめぐっていたコーヒーショップは、主にスペシャルティコーヒーと呼ばれる豆を扱うお店でした。




    たとえば「カルテ」があり、生産国、農園、品種、標高に加え精製方法(収穫したコーヒーチェリーを洗ってタネ=豆を取り出すのか、実のまま乾燥させて取り出すの

    かなど、チェリーを生豆と呼ばれる状態にする過程のこと)から抽出方法まで、情報として記載されているものを、読み解く必要があるようなお店です。


    スペシャルティコーヒーの定義はこちら。

    『消費者(コーヒーを飲む人)の手に持つカップの中のコーヒーの液体の風味が素晴らしい美味しさであり、消費者が美味しいと評価して満足するコーヒーであること。』

    美味しいと評価して満足するコーヒー。


    なかなかに微妙な表現です。


    かなり専門的な評価のもと豆が扱われています。


    簡単にいえばショップの役割は《その素材(豆)の特徴を生かして抽出・提供すること》です。


    「美味しいと評価して満足する」のは《飲みて》であるお客さんなのですが

    実際にお客さんはどのくらい《素材の特徴》を理解しているのか?


    定義というボールは投げられたけれど、キャッチされずにそこに落ちたまま。拾い上げて、いろんな面を見せていくという役割が必要なのに足りていない状態。

    自分の目にはそのように写っていたのだとおもいます。


    そもそもコーヒーは、野菜のように誰もが口に入れた体験を持つ素材ではありません。


    喫茶店文化が先に定着していて、よく焼いた《深煎り》の豆が長い間主流にあった日本においては、素材の特徴を生かしたコーヒーは、お客さんにとって飲み慣れない《あたらしい味》なんですね。


    深く煎るほど、味が苦さの方向で均一化されていきます。対して、


    「ここまで焼いたら素材の特徴も何もないよね(もっとフレーバーや特徴を残して焼いていこうよ)」という文化。


    これが、近年の流れです。


    (↓あたらしい味をあたらしい価値にする話はこちらの記事に書きました)




    解消されなかった課題


    「酸味があるのが苦手」とみんなが口を揃えて言うのは、


    本当に酸化した、状態のよくないものを飲んでいる場合もありますが、私は

    「深煎りの味わい」を想像して「浅煎りのコーヒー」を飲んでいるから

    だと考えています。


    子どもの頃、コップに入った透明な液体を何も考えずに飲んで、親の飲みかけの日本酒だったことがあります。笑

    意識と体験のギャップはひとにショックを与えるし、時にそれはネガティブな印象として残ってしまう。

    おいしいと感じてもらうには、そのギャップを埋める何かが必要ですが、専門的なことであるほど、コミュニケーションなしで理解してもらうのは難しいことだとおもうんです。


    この専門的なところについて、

    店舗に立っていた時は「できるだけ説明したい」とおもっていて、

    お店に飲みに行った時は「なぜ説明しないのだろう?」とおもっていました。


    そして、フリーになってみて



    「この専門的なところ、誰か説明するひとがいればいいのに」

    「あ!そこ、自分ができるわ」と変化したんですね。


    自分がBARに立っているとき、カップに集中したい気持ちはわかるし、公平な場である以上は後ろに並んだお客さんがいれば、説明を切り上げないといけないジレンマもわかる。


    専門的な理解を相手にもとめる商品を出しているのに、説明する時間や手間をかけられないという相反してしまうシステムになっていることも理解している、


    どちらかというと解消したほうがいいのはこのシステムエラーではあるのですが、そのシステム自体を変えようとする人も少ない。


    そこまで知っていたからこそ、自分がそれをやろう、やれるし、やりたい、と思った。

    そういう、つながる感じがありました。




    知識を広めたいという目的だけであれば、SNSで啓蒙したり、ワークショップをしたりということもできますが、やはり決め手は 「自分がどうしたいか」でした。


    既存に沿って、従来どおり、という道しかないわけではありません。

    私の場合は


    自分が楽しくて、参加者も楽しくて、コーヒーに関わるみんなもたすかる



    そういう方向で、コーヒーショップ " 分解 "ツアーになりました。


    お客さんがお客さんの視点で切り取った疑問を分解していくツアーです。


    主体が自分とお客さんという二者だから、いっしょにつくるものになる。


    そこではこれまでnoteで書いてきたような私個人の考えもお話ししていて、お客さん(参加者さん)の考えや体験も伺います。


    ほとんど対話でできているんです。

    対話があることで、画一的なものでなくオーダーメイドに寄っていきます。




    個人の「持続可能性」


    課題をアイディアで解決するのがたのしいし、楽しさを置き去りにしてなにかを高め生産すること " しか " 許されない世界には生きたくない。

    そういう想いが私にはあり、そのためこういう形のツアーになりました。


    これは、甘い、と一蹴されても仕方がない考えかたなのかもしれません。


    だから、基本的には自分が自分の人生に適用するだけですが、こうして伝える狙いがあるとすれば


    そういう考えかたもあるのかとおもって、自分を主体で考えるひとが増えること。


    記事にいいねがたくさんつくのも嬉しいけど、それよりもこれを読んだ誰かが「自分のやりたいことを自分の好むやりかたで」始めたいと感じてくれるほうがうれしいんです。


    《持続可能性》という言葉が聞かれるようになり久しく、あらゆる場でサスティナビリティが叫ばれています。


    しかしSDGsとは別に、ひとりひとりが《個人の持続可能性》を考える必要があると私は考えていて、


    【自分ができるやりかたで、健康ややりがい、ストレスの管理をしていくこと】が、自分から死なないためには必要なんですよね。


    私にとっては

    自分ができるやりかた=無理なく続けられるやりかたで、

    続けるために楽しさが必要というだけですが、


    これ(やりかた)は、ひとの数だけあります。

    大事なのはここでも《自分の場合はどうか》自分で知っていることです。



    味は " 表現 " することができます。


    それは、自分が感じたように、自分の知る言葉をつかい、相手の共通の体験に語りかけるようなこと。


    一方で【何をおいしいと感じるか】は教えることができません。


    人に教わるものではないともおもっています。


    他の多くのことと同様に

    「何をおいしいとするのか」は、自分で決めていいことです。

    提供側はあくまで【こちらのおいしいと感じているものを伝える】ことしかできない。


    だとしたら自分はお客さんが、

    自分のおいしいをつくっていくためにできることをしたい。


    そんなふうに考えて始めたツアー。


    コーヒーにも、こういった活動にも興味がある方は、ぜひ一度あそびにきてみてください。



    あたらしいことを知って、文化ごと興味をもつ。

    その起点のあとに、疑問や違和感、理解をとおって、


    そのひとの中に " そのひとのおいしさ " が形成される。


    そういう流れが好きで、推進したい。

    そのために自分の経験や知識やそれ以外の力を使えることが、たのしくて、うれしくて、おもしろいな、とおもっています。



    この記事を書いたユーザー

    不適切な内容を報告する